無題

『マチネの終わりに』という本を読んだ。芥川賞作家の平野啓一郎氏の著書で、アメトーークの読書芸人でも取り上げられ、話題となっている作品だ。内容に関しての詳しい言及は避けるが、この作品は「愛」の物語であり、そこには運命的に相手を愛するも、深く、深く相手を想うあまりすれ違ってしまう男女が出てくる。そしてこの本を読んで、Mr.Children桜井和寿が「愛とは想像すること」と語ったいつかのライブでのMCを思い出した。

個人的な話になるが、最近失恋をした。正確に言うと失恋は続いているのだが。自分の行いにあまり悔いはない。自分の気持ちと行動に自分で説明がつけられるし、フラれたこと自体は辛いが、納得できる。

そして今までであれば、納得していれば、その果ての結果が"失敗"であっても「仕方がない」と受け入れ、諦めることができた。自分でも驚くほどに潔く。

しかし今回は違った。納得し、後悔もないにも関わらず、いまだ全く心の中から退場しようとしない自分のその子への好意を、持て余し、どうすればいいかわからなくなっている。そして、「後悔」ではない「未練」という言葉の意味を、おそらく人生で初めて体感している。

 「未練」という居候との生活の中で、色々なことが頭をよぎった。

今までなんとも思っていなかったback numberの曲を聴いた。雷に打たれたような衝撃が走った。「これおれのことやん!!!!!」back numberを聴いてる人たちは、少なからずみんなそうなったことがあるのかな。ただ自分にはその子との、指折り数えるようなたいした思い出はないのだが。

母親を亡くした人のことを思い出した。もう2度と会えなくなってしまった肉親を想うその人と、ただ好きな人にフラれたのに諦めきれてないだけの自分の気持ちを重ねるなんて、その人に失礼極まりないし、一緒にするなとブン殴られても文句は言えない。でもその重さも色も形も深さも、何もかも違うけど、その胸を締め付ける苦さは、同じ名前をしている気がする。

その子にフラれた次の日、会社の人と朝の3:30までお酒を飲んだ。これまでお酒に走る人の気持ちはわからなかったが、確かにお酒を飲んでいると辛い気持ちを忘れられる。お酒も良いものかもしれないと、酔いと吐き気に塗れながら、始発まで仮眠しようと会社に帰った。しかしふと冷静になると、チクチク胸を刺すような気持ちが一瞬で心を満たしていき、気がつくとTwitterのアカウントを消していた。7秒後、そんなことをしても何の解決にもならないことに気づいた。いや、そんなことは知っていた。本当はただお酒のせいにしたかっただけだ。でもきっと衝動というものは、時に浅はかなのかもしれない。

「愛とは想像することだ」と大風呂敷を広げ、他人の気持ちをわかったような顔をすることは、ひどく傲慢かつ尊大だと思う。けれど未練を知ったことで、「あの人もこういう気持ちなのだろうか」と、それまでは陽炎のようだった"想像する"という行為が、その輪郭を表し、少なくとも視界に捉えられるぐらいには、実感できた。

先週MONOEYESのライブを見た。今まで目の前で他の客が肩車をしたりサークルを作ったりすると、一瞬だが、心の中で舌打ちをしたくなるような気持ちになっていた。邪魔だし、自分には理解できないと。けれどその日初めて、目の前で何が行われようと、どんな目に逢おうと、ただの一度もイヤな気持ちにならなかった。細美が言った。「おれたちはみんな違う人間で、それぞれ楽しみ方も違えば、価値観も違う。でも思いやりは忘れるな。」

思いやりが何を指すのかはわからない。でもきっとここにいる人たちはみんなMONOEYESが好きで、このライブを最高に楽しんでいて、そして自分もMONOEYESが好きで、今このライブを最高に楽しんでいる。その場にじっと立ってる人もいれば、手拍子をしてる人もいる。大声で歌っている人もいれば、踊ってる人もいて、サークルを作る人も肩車をする人もいる。

ただ「好き」や「楽しい」という気持ちの表現の仕方が、みんな違うだけなんだ。そしてきっと、その「好き」や「楽しい」と思うその気持ちそのものは、みんな同じなんじゃないか、そう思った。自分と、サークルを作る人や肩車をする人たちが、同じようにこの場所に抱えてきた気持ちを想像した。「楽しみだ。」「ワクワクするな。」「良い夜になるといいな。」合ってるかはわからない。でも想像してみた。初めて、心からそう考えることができた。同じ気持ちを持っていた。涙が止まらなかった。

みんな、違う人間だ。好きなものも、嫌いなものも、好きなものを好きなポイントも、嫌いなものを嫌いなポイントも違う。見え方も、その受け取り方も、考え方も、価値観も、そしてそれを表現する方法も違う。

でももしかしたら、その1番始まりの場所にある、気持ちそのものは、そんなに違わないかもしれない。好きなものを「好き」と思う気持ちや、嫌いなものを「嫌い」と思う気持ち、喜び、怒り、悲しみ。もちろん完璧に一緒ではないかもしれない。でも心の中にあるそれは、自分たちが思ってるよりもずっと同じかもしれない。

みんな、違う人間だ。でも同じ人間だ。そう思うと、なんだかいくらでもわかりあえるような気がしてきた。

花が咲いていたら、もちろん、花に目がいってしまう。同じ場所にそれぞれ違う花が咲いていたら、その花の色や形の違いに気を取られてしまう。でもそのそれぞれ違う花も、同じ太陽の光を浴びて、同じ雨に打たれ、同じ地面に根を張っている。目には見えないけど、きっとそうなんだと思う。

想像してみようと思う。想像したところで、人の気持ちなんて一生わからない。そもそもその想像が足りてるかもわからない。想像して出した答えが、望まれているものと違うかもしれない。でも、想像してみようと思う。

自分と一緒にいて楽しいのか、その子がどう思ってるのか、不安だった。でもそう想像した瞬間から、本当は始まっていたのかもしれない。そう想像した瞬間から、彼女のことが好きだったのかもしれない。

最近パクチーを食べれるようになった。前までは本当に苦手で、唯一嫌いな食べ物とまで言っていた。でもその子がパクチーを好きと言っていたから、どこが好きなんだろうと想像するために、食べてみた。結局その子がパクチーの何が好きなのかはわからずじまいで、口の中にはあのクセのある味と香りが広がるだけだった。でも気がつくと、パクチーを食べれるようになっていた。

そしてそれは、悪いことではないんじゃないかと思ってる。