22│09│薫る花は凛と咲く

■某日
 恋愛漫画づいていて、特に『薫る花は凛と咲く』と『こっち向いてよ向井くん』にハマっている。
 『薫る花は凛と咲く』は読んでいると文字通り「キュンキュンする」としか形容できない感覚に陥る。この胸の感情を「キュンキュン」と呼んだ最初の人間は天才だ。ストーリーは現代版「ロミオとジュリエット」のような、ちょっとベタなぐらいの王道さと青臭さもあるものの、ヒロインの薫子ちゃんが自分の好きな女性のタイプ全部盛りかというぐらい半端なく可愛い上に眩しいくらい尊敬できるのと、主人公の凛太郎の不器用だけれど優しく筋の通ったカッコいい生きざまのベストカップル具合に毎回「お前ら絶対幸せになれよ」と謎の視点から親指を立てたくなる。あと2巻は3回はマジ泣きポイントがある。ベター is the Best。
 一方『こっち向いてよ向井くん』は読むと毎巻鈍器で頭を33発ほど殴られている気分になる。35歳彼女いない歴10年の主人公・向井の行動のイタさと恥ずかしさに共感性羞恥で悶絶しつつも、自分も同じようなことやってたんじゃないかと我に返りそのまま自殺未遂に走りそうになる。でも傍から見てると恋している人間というのは大なり小なりイタくて恥ずかしいものかもしれない。そのイタさや恥ずかしい気持ちを乗り越えて、自分の気持ちと相手に向き合うから尊いんだろう。

 菅田将暉の"ばかになっちゃったのかな"という曲が好きだ。

 ばかになっちゃったのか、元々ばかなだけかはわからないが、「それでいんだよ」と言ってくれるこの曲が好きだ。情けないけど、それでいいとも思う。

■某日
 SEKAI NO OWARIのドームツアー『Du Gara Di Du』を見るために東京ドームへ。セカオワのライブは各ツアーごとにコンセプトが決まっており、今回の舞台は遊園地。観客は2122年に住む設定で、この遊園地は観客を「2022年の世界」に連れて行ってくれるという、言わば100年後の未来から見た2022年をセカオワの楽曲を通して描いていく。ネットの誹謗中傷、同性愛、環境汚染、表現規制。数曲ごとに100年後からは過去の遺物として語られる現代の社会問題も、虎(?)のマスコットキャラのおかげか説教臭さは感じさせない。
 巨大なセットと照明の演出力でコンセプトを現実の世界に出現させ、ポップソングとエンターテイメントの力でどんな年代の観客も楽しませながら、世の中への皮肉や矛盾への疑問を突き付けるメッセージを感じるのが自分にとってのセカオワのライブだが、今回もまさにセカオワらしいと言えるライブで本当に楽しかった。あと昔からセカオワのライブに来ると、いつか自分の子供と一緒に来たいなという気分になる。絶対的なエンターテインメント性があるから小さい子供でも楽しめるだろうし、その上で何かを持ち帰ってくれるんじゃないかという期待がある。子供どころか結婚どころか彼女ができる予定すらないんだけどな。頼んでもないのに働きたがる想像力、おれの代わりに仕事をしてほしい。

 あと自分がセカオワの曲でTOP3に入るぐらい好きなこの曲をやってくれたのも嬉しかった。小学校か中学校の教科書に載ってもいいんじゃないかって半分冗談、半分本気で思ってる。


■某日
 昔「ツイート大好きなのでずっとTwitterしてください!」と言ってきた女の子。彼氏ができたらTwitterをやらなくなり、インスタのストーリーに彼氏と出かけた時の写真をアップするだけになった。それを批判したいわけではない。ただそういうことだっただけ。

 学生時代に仲の良かった同級生。あんなに毎日一緒にいたはずなのに、そのほとんどの奴は今は連絡先もわからない。仲が良かったわけではなくて、ただ同じ教室に入れられていただけだったのかもしれない。誰のせいでもない。ただそういうことだっただけ。

 Twitterで相互フォローだった人たち。何度かやりとりもしたこともあったはずが、ある日突然ブロックされる。「なんかしたっけな」と考えるも思い当たる節はない。ボタン一つで切れる繋がり。ただそういうことだっただけ。

 ずいぶん前にマッチングアプリで一度だけ会ったことのある人。突然ラインが来て、自分のスルーされたメッセージを見ることで、その人がどんな人でなんて名前だったかを思い出す。「奇跡が起きて会えたら話しましょう」と言われ、この人は奇跡が起きないと会ってくれないんだなと思う。多分その人に他意はない。ただそういうことだっただけ。

 永遠なんてない、当たり前だけれど。今一緒にいるということが、過去一緒にいたということが、未来も一緒にいらることを保証してくれるわけじゃない。むしろほとんどの出会いは、たまたまその時だけ一緒にいられるだけの期間限定のものなんだろう。それはすごく寂しい。でも桜が春にしか見れないことを嘆いてもしょうがない。そういうものなんだから。

さよならだけが人生さ
孤独だけが最後まで友達さ
重なる一瞬の日々に
輝く一瞬の火花
ともに眺め 心
振るわせようじゃないか

bacho「さよなら」

 もう一度出会うために奇跡が必要な人は自分の人生に何人いるんだろうか。でも出会いを奇跡と呼ぶのなら、家族も、友達も、職場の人も、SNSで知り合った人も、こうして出会えて、一緒に生きられてるのは奇跡だろう。ならせめて、重なった人生、やがて来る終わりまで、同じ火花を眺め、ともに心を振るわせたい。それが例え一瞬だとしても。奇跡のおかげで重なり合っているこのお互いの人生が、ほんの少しでも長くこのまま続いてくれたらいいなと思う。

 まあでも自分がもしその人に「会いましょう」って言って会えたなら、奇跡は自分の手で起こせるってことだから、いつだってこの人生に欠けてるのは奇跡じゃなくて勇気の方なんだろうけど。