22│09-10│無題

■某日
 「結婚したいと思う?」
 「子どもほしい?」

 自分みたいな32歳彼女無し独身男性にとってはこういう質問は踏み絵のようなもので、聞かれるたびになんて答えたらいいかわからない気持ちになる。

 本音を言うと「結婚したいか子どもほしいかわからない。したいっちゃしたいし、したくないっちゃしたくない。欲しいっちゃ欲しいし、欲しくないっちゃ欲しくない。どの人生もそれぞれの楽しさと大変さがあると思うけど、自分がどれを望んでいるか自分でもわからない。てかまず相手いないし。その相手によって自分の気持ちも変わるかもしれない。」であり、「結婚も子どもを持つのも自分一人の意志で決めれることじゃない。特に子どもに関しては男はどうやっても子どもを産めないから産むのは女性に任せなければならない(体外受精や人工授精、養子のような選択肢の話はここでは置いておく)。だから男が子ども欲しいって言うのもなんかおかしい。おれが経験しようがない大変かつ痛いかもしれないことをその人にさせることになるわけだから。だからこの人とはずっと一緒に生きていたいと思うような人に出会えたとしたら、相手が結婚したいって言えばするだろうし、子ども欲しいって言えば子どもを持てるように一緒にがんばりたいと思う。結婚したくないならしないでいいし、子どもほしくないならいなくてもいい。」だ。
 「ただ一緒にいれたらいい」なんて言うのはロマンチストが過ぎるけど、そういう相手がいない状況で仮定の質問をされても、断言できる何かが自分にはない。

 ただこれをそのまま言ったら全部相手任せの超無責任人間に映るだろうし、この場で求められているのはこういうマジレスではなく、一般論の延長としてちょっとしたトークのネタになればいいということがほとんどなので、毎回曖昧な、思ってるような思ってもないようなことを答えてしまっている。
 
 昔マッチングアプリで知り合った人に『子ども欲しいと思いますか?』と聞かれた時に、「自分の好きな人と自分の子どもがどういう人間に育つのかは興味あります」みたいなこと(その時はそう思った)を言ったら『"子どもガチャ"ってことですか?』と、会うの2回目なのに死ぬほど説教された記憶は今でも軽くトラウマだ。そんなつもりはなかったんだけどな。人生のあちこちに踏み絵が置いてあって、気づかないうちにジャッジされて、気づかないうちに切り捨てられてる。
 結婚願望のある人や子どもを欲しいと思っている人にとっては大事な意思確認なので、この質問への答えでアリかナシかをジャッジされるのは致し方ないが、人間性まで否定されるのはやっぱキツい。"正しい"や"間違っている"があるなら教えてもらいたい。"正しく"なれるように努力するよ。

 この話をオンライン英会話を受けてる時にアメリカ人の24歳の女性に話したら、「そもそもそういう質問をしてくる人や、その回答で正しいや間違っているとジャッジするような人間はFxxKだ。」「私はgo with the flowだよ。」と言ってくれて、少しだけ気持ちが楽になった。

 でも自分も、例えば自分が大学に行ってたから相手も受験を経験したり大学に行っていた前提で無意識に話してしまう時があるし(最近もやってしまった)、そういう風に無自覚に何かを前提にしてしまっていたり、先入観や固定観念を基に、発言からその人がどういう人かジャッジしてしまっている時は絶対にある。人の振り見て我が振り直せ。「私は誰のこともjudgeしません」と言ったRina Sawayamaの人間力を時間差で感じる。まあジャッジすること自体を丸ごとなくす必要はないけれど、自分の肌に合わない=間違っている、では必ずしもないし、「そのお前のジャッジは本当に大丈夫か?」って一歩立ち止まるぐらいの隙間は頭の片隅には置いておきたい。

 こういうこと考え始めると、人と話すのがどんどん億劫になってくる。自分の吐いた言葉は、全部自分に返ってくる。「もっと相手の気持ちを考えろ」とおれに言ってきた人がおれのことを考えてくれていると思ったことは一度もない。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」。罪を犯したおれたちは、馬鹿でしかないぐらい豪速球で石を投げつけ合っている。

■某日

 下半期好きだった曲に9月の新譜を加える。今月は忙しさとストレスのせいかダウナーな日が多かった。SNSを見る時間も減っている。

 1人でいる時にSNSを見てないと、人生がものすごく静かになる。洪水のように流れてくるニュースに誰かの発言、知らない人の日常も全部わからない。仕事関係やごく少数の人と連絡を取るだけ。自分と過ごす時間が長くなる。社会から切り離されているよう。窓から入ってくる生活音と、この人生は結びつかない。死ぬ時はこうやって1人で死ぬんだろうなーという気分になる。

 夢を見た。バスや電車を何度も乗り継いで、何時間かかるかもわからないようなどこか遠い場所に行かないといけなくて、今出発しないと間に合わないのに、動き出せずにいる夢。ずっと焦燥感があって、それが胸に引っ掛かり続けている夢。バスには乗りこんだけど、結局最後までそのバスは出発しないまま、夢から覚めた。

 今の自分の状況は「山頂に向かって一歩一歩、前に足を踏み出している」のではなく、「崖から落ちないように、指先に力を込めて必死にしがみついている」方。どちらも「頑張っている」と言えなくはないけど、後者はただ滑り落ちないようになんとか現状維持しようとしているだけ。おまけに打破したいという気分でもなくて、なんとか現実逃避の時間を増やしてやり過ごしてる。これが待っていれば過ぎ去る嵐なのか、自分でゴールを見つけないといけない迷路なのかはわからない。ただ今はこの出口の見えない暗闇の中、ベッドの上で寝転がりながら『サマータイムレンダ』を読んでゴロゴロしていたい。『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』の皮をかぶった『ストレンジャー・シングス』ばりのミステリーホラーって怖すぎだろお前。

■反省
 今回の日記読み返したら自分のメンタルが反映されてかまあまあ暗くて心の中のIKKOが「どんだけ~」ってめっちゃうるさい(心の中にIKKOを飼うな)。落ちてる時の文章はただでさえこんがらがってるものが更にこじれて、おまけにかまってちゃんみたいに「すごいしんどい」みたいなことを書いて人の気を引こうとしてる。3か月前の日記でも自分の文章暗いみたいなこと書いていた気がするから、そもそも明るい文章なんて書いたことがない気もするが。
 彼女ができた暁にはハッピー、ラッキー、ラブ、スマイル、ピース、ドリームなカップルTikTokerのような読んだ人間が蕁麻疹出るぐらいの超のろけブログを書いてこの陰惨なムードを帳消しにしたい(嘘)。カップルTikTokerの動画が頼んでもないのにおすすめに流れてくると「この自作自演どもが!」と毎回ブチ切れてるが(嘘)。「彼女に○○してみた!」って動画を自分で編集してる時どんなメンタルなんだお前ら今すぐそのメンタルくれ(本当)。
 でもTikTokのおかげで新しい音楽に出会うということが自分の人生にも少しずつ起きている。さっきSNS見る時間減ってるって書いたけどTikTokはちょいちょい見てる。サンキューTikTok

 TikTokのおすすめを見てたら流れてきた。2000年代のポップパンクって感じで、歌詞も今の自分の心境にハマる。どうしようもない自分のどうしようもない人生の歌。ポップパンクで黒人ボーカル珍しいなと思ってMV見てみたら、コメント欄に「No joke. I think every 30 something year old feels this.(これはマジだけど、30代の人間はみんなこれ感じてるでしょ)」って書いてあってちょっと笑ってしまった。でも落ちてる時だったから少し元気出た。

 自分にとって人生っていうのは、夢や希望に溢れた花畑みたいな自分を祝福してくれる世界ではなくて、砂漠の中から砂金を見つけるような、ろくでもないものの中から輝いている何かをなんとか探し出す苦行のようなものだ。世の中は段々悪くなっていってるし、嫌な人間はゴロゴロいる。でもそれを断罪できるほど、自分が清く正しいわけでは決してない。誰も気づいていなくても、自分のダメな部分を自分だけは全部見てきたから。周りの人や尊敬する人たちを見て、自分もちょっとでもマシになりたいなと思いながら、自分の何かが少しでも誰かのためになったらいいなと夢見ながら、ずっとあがいている。

 ただどれだけ落ち込んだ気分や情けない自分のことも、爽やかでアップテンポな曲に乗れば少しは気分も上がる。同じクソなら前向きなクソの方が良い。自分のこのスーパーネガティブ自意識過剰こじらせ思考も、笑い話にでもなって、誰かの気休めぐらいにはなってほしい。

 「生きづらそうですね」。
その時好きだった人に言われたのを今も覚えている。

"ありのままのあなたでいいんだよ。"
腐るほどありふれた言葉だけど正しいと思う。
ただ自分に言われても、「はいそうですか」って受け取れない。

"生きなよ 少し無理をして なりたい自分になるために"
そんなのしんどい。
でも正しいとか正しくないじゃなくて、そうだよなって思った。

 ランニングしてる時、バラードやミディアムテンポの曲聴いてる時よりも、アップテンポの曲聴いている方が自然とタイムが速くなる。
 足遅く生まれた人間が少しでも遠くに行きたいなら、息切らして生き急ぐぐらいでちょうどいい。

遠くに行く必要?
そんなものはない。
ただ行ってみたいだけ。