22│10 │京都旅行記│-Mémento-Mori-
■1日目
「そうだ 京都、行こう。」
ではないけれどなんとなく「京都行こうかな」という気分が人生で一番高まっていたので京都に行く。
理由らしい理由は特にはないけど、アンディ・ウォーホル展行ってみたいなと思っている時に、会社の先輩にミスチルの『深海』というアルバムのジャケ写がアンディ・ウォーホルの〈小さな電気椅子〉がモチーフになっているという話を聞いたり、そういえば一度も会ったことないフォロワーの人が京都にいたなと思い出したり、そもそも京都旅行を一度もしたことないことに気づいたり、あとこれは結果論だが失恋したてだった自分にとって、京都はやれ縁結びだなんだという恋愛運が高まる(ということになっている)神社がかなり多く、意図せず傷心旅行のような半ばヤケクソのように神頼みをしまくる旅になったので、自分にとってはこのタイミングで行くことに意味があったのかもしれない。
数年ぶりに乗る夜行バス。大学生の時に就活で面接を受けるために大阪から東京に何度も夜行バスで通ったのを思い出す。全部落ちたけど。最終面接で交通費を出さなかった某メーカーのことはまだ忘れていない。10年前の当時と比べると夜行バスにもハイグレードのプランも増えていて、自分が乗ったのもベビーカーのように照明を防ぐために頭上にかぶさるカバーと座席同士の間に仕切りがあるタイプで、これがあるだけでも睡眠の質はかなり変わった。車内アナウンスには当然のように韓国語が流れてきて、当たり前だけどあの頃とは違う。日曜の夜でも混雑する夜行バス乗り場で「この人の数だけ人生があるんだな」っていう、新幹線に乗って通り過ぎるマンションの灯りを見てる時に感じるあの感覚になった。一本前のバスに乗るはずだった外国人観光客が乗り遅れたことに号泣していたり、バスに乗り込んだら自分の席のはずの場所に既に人がいて爆睡していたりと、幸先はまあまあ悪い。
朝の7時前に京都駅に着く。早朝の京都は想像してたよりも更に寒い。ほぼ冬の空気。夜行バスのプランに付いていた近場のホテルの大浴場の入浴券を使って、寒さと夜行バスで凝り固まった身体を可能な限り回復させ、とりあえず京都駅で有名らしい喫茶店でモーニングを食べる。
お風呂に入ってモーニングを食べてもまだ朝の9時頃だったので、夜行バスは睡眠と肉体は犠牲になるが時間を有効利用できるという点ではいい。時間を持て余していたので、朝から知り合いに連絡して教えてもらった貴船神社に向かう。
貴船神社はその日の朝まで一度も聞いたことがなかったけれど、調べてみると水の神様が祀られているらしく、おまけに縁結びの聖地でもあるらしい。自分はみずがめ座で、四柱推命でいう所の五行も水属性らしく、水の神様と言われるとめちゃくちゃ親近感が湧いてくる。おまけに失恋したての身に縁結びの神社。「これはおれは行かないといけないやつやん」という謎の旅テンション。
貴船神社は京都市から北側の山中にあり、中心部よりも体感で空気がもっとひんやりしている。平日の朝一だったからか観光客もそこまで多くなく、落ち着いていてかなり居心地がいい。本宮、奥宮、結社の3か所全てで「好きな人と結ばれますように」という煩悩の極みのような願い事をする。DJ松永が朝井リョウと初詣に行った際にお賽銭に15万使ったことを思い出し、自分も諭吉ぐらいぶっ込むかという謎の旅テンションに6秒ほどなるも1.8秒後には我に返り5円を投げ入れた。やっぱご縁が大事なので。
お昼は市内の中心部に戻り教えてもらったカレー屋さんへ。どこで食べてもカレーは美味しいから偉い。
その後は今回の旅行の目的の一つであるアンディ・ウォーホル・キョウトに向かうため京セラ美術館へと移動する。が、
「休館日」
いや、なんか人少ないとは思ったけど。調べなかったおれが悪いけど。
ただでさえスカスカの旅程の中で2時間ぐらい見ていたスケジュールが空きになり手持ち無沙汰に。やることも考えてなかったのでとりあえず行く予定だった清水寺に早めに向かう。
道中で安井金比羅宮に立ち寄る。有名な縁切り縁結び碑は長蛇の列。「衆人環視の中で独身男一人で岩をくぐって悪縁を絶ち、縁結びを願う様を大衆に見られる恥を晒すぐらいならおれは悪縁と生きる。」という自意識がえぐすぎて「好きな人と結ばれますように」という本日4度目のお願いをしておみくじを引いて帰る。財布にはもう5円はないので100円玉を賽銭箱投げ入れる。ご縁もクソもない。
清水寺が近づいてくると明らかに観光客の数が増えてきた。浴衣を着たカップルに外国人観光客、修学旅行生まで。平日に休みを取ったけれどそんなの関係ないぐらいの人込み。自分の中学の修学旅行は長野県で、本当はラフティングをするはずが前日の大雨で川が増水し中止。全員まとめて黒部ダムに連れていかれたことしか覚えていない。返してほしい、おれの青春の1ページ。
人生初の清水寺はそのスケールの大きさと「これが!あの!」という既視感を実際に体感できて結構感動した。「胎内めぐり」は閉所と暗所が苦手な人以外には是非オススメしたい。暗すぎてめちゃくちゃテンション上がるので。そして本堂で「好きな人と結ばれますように」と本日5度目のお願い、音羽の滝で6度目のお願いに勤しむ。小銭を投げ入れ神様に股を開き続けるおれが悪いんじゃない。ただ神様が多すぎるんだ。イスラム教信者は神様だらけの京都に来たらどう思うんだろうか。おみくじも引いたが末吉じゃなかったのでなかったことにし、フォロワーの人に会うために河原町の方へ戻る。
夜は京都で働くフォロワーの人に会う。Twitterとインスタ両方で4,5年?もうどれぐらい相互フォローか覚えていない。ただその期間もやり取りしたのは2回ぐらい。最初は実際に会って気が合うかわからなかったので連絡するか迷った。でも失恋したてで謎の失恋ハイ(ランニングハイ的なやつ)になっていたので「嫌われたくないと思っても嫌われる時は嫌われるし、せっかくなら仲良くなれる可能性に賭けて会った方がいい。ダメならいつどこで会ってもそこまでの関係。」と思い切って連絡してみたら会ってくれることになった。実際会ってみたら最初の心配は杞憂に終わり、良い人で話していても楽しかった。勇気出して連絡してみるもんだなーというバカみたいな感想を抱く。次会った人とまた同じように仲良くなれるかはわからないけど、それを理由にビビッてこういう日を逃してしまうのはもったいない。どんだけ大事にしようと思っていても終わるもんは終わるなら、賭けに出てみた方が良いこと待ってるかも。ありがとう失恋ハイ。お土産に阿闍梨餅をもらい別れる。
お洒落なホテルに泊まりたい!と予約したホテルはお洒落指数が35000ぐらいで失敗した。部屋にもアートが飾ってあるのが売りだが、疲れた体にはアートじゃなくて温かい湯舟とふかふかのベッドが欲しい。次は大浴場のあるホテルに泊まるという決意を胸にベッドに入り1日目を終える。
■2日目
貧乏性なのでどれだけ眠くても「せっかく旅行に来たから」精神が勝つのでチェックアウトの2時間前にホテルを出発し、京都出身の知り合いに教えてもらったモーニングを求め町を歩く。平日の朝は流石に人も多くなく静かで散歩も気持ちいい。
モーニングの後は昨日のリベンジで京セラ美術館に向かう。人が吸い込まれていくエントランスに安堵しつつ、階段を上がっていく。
自分の中でアンディ・ウォーホルと聞くとビビッドなカラーを使ったキャッチ―なポップアートの人というイメージが強い。ただこのアンディ・ウォーホル・キョウトは、イラストレーターとして活動していた初期や京都旅行からインスピレーションを得た頃の作品から晩年までの彼のキャリアを振り返る大回顧展になっており、特に後半の死を扱った作品群が強く印象に残り、自分の中のアンディ・ウォーホルのイメージが塗り替えられるものになった。
今回の旅行のきっかけの一つになった〈小さな電気椅子〉を見つけて心臓が跳ね上がる。きっかけにはなったがここに本当に展示されているとは思わなかったから。ミスチルのアルバム『深海』のジャケ写のモチーフになったと言われていて(ボーカルの桜井さんが提案したらしい。真偽は不明。)、『深海』ではオブラートに包まれていた死のイメージが、この作品でははっきりと浮かび上がる。
好きな人がいた時「付き合えたとしても別れるかもしれない。結婚できたとしても離婚するかもしれない。全てが上手くいってずっと一緒にいれたとしても最後には死別が待っている。それってめっちゃ悲しくない?」みたいなことを付き合う前から考えていた。そもそも付き合えてないんだけど。でもそういう感じで常に自分の中には最後には"死"があるというイメージはずっと抱えている。でも死が待っているから意味がないのではなく、死が待っているから今に意味がある。という古風なロックスターみたいな発想に繋がっている部分がある。
ミスチルの『深海』はすごく暗いアルバムだけれど、ラスト1つ前の"花─Memento-Mori─"はメロの暗い歌詞とは対照的に、サビでは力強く前向きな言葉が並べられている。
自分は劣等感とコンプレックスの塊のような人間だけれど、それがあるからもっと頑張らないといけないと自分を鼓舞できている。ネガティブな発想が先にくるけど、それは大事にしたい、諦めたくないという思いの裏返しだ。絶望と希望は同じものだっておれの一番憧れている人が言っていた。花に「生」を見るか「死」を見るか。「死」を見た時、だからこそその儚さと尊さと美しさに気づけるのだと思う。眼前にある〈小さな電気椅子〉と"花─Memento-Mori─"を通じて自分の死生観を一周して眺めなおす。
アンディ・ウォーホル展を終えた後ポスターが気になったので、勢いで同時開催していたボテロ展にも入ってみる。
ボテロがマンドリンを書いている時に自身の作家性(丸みを帯びたフォルムの美しさと独自性)に気づいた話や、彼の絵はコロンビアやメキシコの当時の市井の生活や宗教・政治が反映されており、時代考証の資料としても優れているという点はおもしろかったが、個人的には絵そのものへの関心があまり高まらなかったので早めに出てしまった。
結局自分は学術的な評価や歴史資料としての希少性のようなものよりも、自分がその作品を「なんか好き」と思えるかどうかが一番大事らしい。そのアーティストが有名でなくても、その作品に高い評価や意味、資料としての価値はなくても、タッチが好きとか色使いがかっこいいとか雰囲気が良いとか、そう思えるものの方が見ていて楽しいしわくわくする。だから博物館あんまりおもしろいと思わないんだな。
ちなみにボテロ展にはスペシャルサポーターとしてBE:FIRSTが参加しており、音声ガイドで彼らのコメントも聞くことができた。アーティストと美術展のコラボみたいなの最近多いのか。
ボテロ展を終えた後は2日続けてカレーを食べる。ここは知り合いやフォロワーさん何人もから勧められた。どこで食べてもカレーは美味しいから偉い。
午後は嵐山の方に移動し、野宮神社で7度目のお願いをする。7回もお願いしたのでマジ結果出してもらってもいいですか?
本当はトロッコ列車にも乗りたかったが時間がなくなりそうなので今回は断念。天龍寺も見てみたけど、お寺は神社よりもあんまり興味がもてない。あと天龍寺のトイレはトイレットペーパーがなく危うくノーパンで京都を歩き回る羽目になったので、その拝観料の500円で今すぐトイレットペーパーを買ってきてくれ、これ以上犠牲者を生む前に。頼む。
まだ夕方だったが陽が落ちるのが早くあたりは暗い。あと少し来る時期を後ろにズラしたら紅葉が綺麗だったかもしれない。その時期にまた来るのもいいな。
東京駅でラーメンを食べて帰りたかったので早めに新幹線に乗り東京に戻る。
東京駅に到着すると「戻ってきた」感がすごい。地元は大阪なのに東京駅にそう感じるようになった自分は立派な東京の人間かもしれない。
そもそもが貧乏性で「移動に金使うのもったいない」と思っていたので、今までは出張ついでに観光地によるみたいなことでしか旅行らしい旅行はしてこなかったけれど、今回一人で京都行ってみて「旅行っていいな」というバカみたいな感想を抱く。大仰なことをしないといけないみたいなプレッシャーなく、まあ無駄になってもいいかぐらいの気持ちで行ったことのない場所に行くのは気分転換になる。知らない町、歩くだけでも楽しい。何より自分の中の空白地帯に思い出と景色が書き加えられているような気持ちにもなる。
次は直島行きたいな。もしくは青森か秋田。行きたい・やりたいと思うことは、ノリがあれば明日にでもできる。まあ現実問題は休みやお金の問題は考えないといけないけど、勢いでワンクリックしてしまえば、あとは意外と勝手に自分の世界は動き始める。
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5カ月近く毎週書いていた日記を先週ついに書き損じた。頑張りすぎないようにしようと始めた日記も、なんかオチつけたり筋道整えたりしようとカロリー使い始めてるので、もっと「コンビニ弁当食べて寝た」みたいなオカモトのコンドームぐらい内容薄いなんにもならない日記を書きたい。
「無駄なことを 一緒にしようよ」って、それを"Joy!!"ってSMAPは歌っていたからな。最近「何もしないをする」ことに興味がある。まあ今回3週分ぐらい書いたからいいか。