22│11│3, 2, 1 Go

■某日
 1か月ほど前に失恋してから謎の失恋ハイ(そんなものはない)になっており、とにかく思いついたことやってみるかという、自暴自棄ともやぶれかぶれとも開き直りとも言えるテンションが続いている。やりたいことで頭の中に浮かんだのはギター、ボクシング、そしてバンジージャンプの3つ。継続の必要がないバンジーが一番ハードルが低いと思いとりあえずバンジージャンプからしてみることに。都内近郊でマザー牧場と並びバンジーが飛べるよみうりランドに行く。

 この話を人にすると『なんでバンジー飛びたいの?』と聞かれたが、「自分の人生に気合が入りそうだから」としか言えない。人生に気合を入れる意味は?と聞かれたら困る。そもそも誰に頼まれてもないので究極の自己満。でも飛んでみたいと思ったなら、それは自分でも気づいていない無自覚の自分が求めてることなんじゃないかという漠然とした予感もある。

 よみうりランドに向かう道中も、入園しバンジージャンプに向かっている最中も恐怖心はあまりない。これ案外余裕で飛べる気がするな(なぜなら失恋ハイ中だからだ!)と舐め腐っていたが、いざチケットを買い誓約書を書き始めた時、これから自分がバンジージャンプを飛ぶんだという実感が湧いてきて、急に緊張してきた。一度感じた緊張は装備を付けてもらっている時、自分の足で高台の階段を上っている時とどんどん高まっていく。「おれこれからマジでバンジー飛ぶのか」。バンジーが怖くなかったわけではなく、単に他人事のように実感を持っていなかっただけで、実感が湧いてきた途端、今すぐギブアップしたい気持ちになってきた。高台に上がり、上で待っていたインストラクターの人にワイヤーを付けてもらい、先端に立つ。

インストラクター『もうちょっと前いってください』

 いや、これ以上前はないが?足の1/3ほど、つま先が空中に出るまでグイグイ前に詰められる。左手でなんとか手すりを掴んでいるだけで、それ以外の部分は既に空中に放り出されているようなめちゃくちゃ不安定な気分になり、ここで恐怖心がMAXになる。下を見た時なんかよりも、拠り所になるものがないという状態の不安定さに対する恐怖やばい。間違いなく今生きてきて一番怖いわ。

インストラクター『足から落ちると危ないので頭の後ろに手組んで、頭から落ちてください。』

 なんでみんな足から落ちないのか不思議だったけど頭からいかないといけないのか。

おれ「あ、ちょっと飛べないかもしれないです。」
インストラクター『全然飛ぶか飛ばないかはお兄さん次第なんで。ただあんまズルズルいっちゃうとどんどん飛べなくなっちゃいますよ。』

 めっちゃ煽るやん。

インストラクター『ちょっと風強いんで弱まったらいきましょうか』

 まず飛べるか飛べないかにビビってるのにその上タイミング狙って飛ばなあかんの??このまま一生風強くあれ。
 曇り空の高台の上からの景色は別に眺めのいいもんでもなく、これから空中に体を放り出そうとしている自分とは無関係にしか見えない。テレビで芸能人がバンジージャンプを飛ぶ企画で上まで登った挙句ギブアップする気持ちが今ならわかる。
 しかし今日自分が何のためにここまで来たのかを思い出す。あと単純にここまで来てギブアップはダサすぎるし自分のこと一生好きになれないかも。もう飛ぶしかないと腹を括る。誰に頼まれてもないのに自分でやると決めて、勝手にやってきて死ぬほどビビッて、自分の意地とプライドのために飛ぶ決意をする。自意識過剰の自転車操業

おれ「多分いけます。まだ風強いですかね?」
インストラクターの人『あ、いけます?風強いですが、まあもういっちゃいましょう』

 風とはなんだったのか。正直『まだ風強いんで待ってください』待ちだったんだけど。というこっちの疑問を無視して一気にカウントに入る。

インストラクターの人『3!2! 1!』
おれ「(え、待って待って待って早い早い早い)」

 と0.3秒の間に20回ぐらい思うも待ってはくれず、ただ体は自然とカウントに合わせるために空中に向かって倒れていく。その後のことは全てが一瞬だったが、「こえー!!!」と叫びながら落ちていったこと、人間が地面に落下してくスピードはまじでヤバいこと、びよーんとリバウンドで上空に跳ね返ったタイミングでワイヤーについてる抱き枕のようなクッションに夢中でしがみついたこと、恐怖が人生一を記録して「怖すぎワロタwwwwww」みたいなテンションになりずっと爆笑していたことは覚えている。あと地面に帰ってきた時、ぐったりするぐらい疲れていて10歳ぐらい老けた気分になった。装備も外され解放された時、こわばって締まった心臓とおぼつかない足取りの中、よく飛んだなーという微妙な達成感と、バンジー飛んだぐらいでは変わらない人生観を感じる。ただ間違いなく生きてて一番怖かった。勇気出した自分を褒めてやりたい気持ちもあるが、飛べたのは心の準備ガン無視でカウント始めるあのインストラクターの人のおかげな気もする。物理的には背中は押してないが、気持ちの面ではあのインストラクターの『3!2! 1!』が背中を押してくれた(飛べよという圧にも感じたけど)。

 人生でなにか迷った時、決断を迫られた時に「今だ!」なんて教えてくれる合図はない。合図がないから本当にいっていいのかと迷うし不安になる。そのせいで今まで何度もタイミングを逃してきたんだろう。人生にインストラクターはいないから、自分に気合入れるのも自分の背中を押すのも自分次第。勇気出ない時は、とりあえず『3!2! 1!』ってカウントしてみてもいいかもしれない。

↑飛び終わった後にこの曲のことを思い出した

 そのあとせっかくよみうりランドに来たからとジェットコースターにも乗ったけど、ちゃんとめっちゃビビった。
 怖いもん経験したからと言ったって怖いもんがなくなるなんてことはない。ちゃんと全部怖い。でも絶対また死ぬほどビビるのがわかってるのに、最近はもっと高いところのバンジーの場所を調べてる。

■某日
 THE 1975のCDを渡すために高校の時の友達に会う。大人になってからもたまに連絡を取り会っている数少ない友達。久しぶりに会ったからと言って大した話をするわけでもないが、普段接している人とはしないような話ができるのは同級生だからかもしれない。高校の時同じクラスだった奴がボディビルダーを目指しめちゃくちゃ鍛えてる写真を見せられ当時との違いに驚く。自分は学生時代の同級生に会っても「変わらない」としか言われたことはないけど、10年以上経ってれば変わってない方がおかしいのかもしれない。

■某日
 出張で大阪に行く。3マンのライブで、自分の担当以外の2組のライブは初めて見る。バンド名とアー写、そしていくつかの曲をチラッと聞いただけの印象と、実際にライブを見た印象はかなり違った。生で聴く方が良い。ただ同時に、生で見る機会のない人に伝わっているイメージが、そのバンドの実像を正しく伝えられているのかというアーティストブランドについても考える。イメージがないと興味を持ってくれないし、イメージと実態に乖離があり、それがマイナスのギャップではファンにはなってくれない。
 ライブの後は会社の後輩と行きつけになっているたこ焼き屋へ。大阪に住んでる時はたこ焼きの美味しさに気づかなった。もったいないことをしていた。何度か来ているからか店員さんに顔を覚えられており、帰り際に名前まで聞かれてしまった。「マッチングアプリでは可愛いと思う子としか会わないやろ」などど後輩に話していたクソ調子こき発言を思いっきりイジられたので今後行きづらさがすごい。

■某日
 SNSで10年来のフォロワーの人に某ブランドの展示会に誘われる。こういう機会でもないと参加できないものではあるので二つ返事でOKの連絡を返す。当日はそのフォロワーの人を誘った別のデザイナーの人もいたようではじめましの挨拶をする。学生時代は華道をやっていて、今はフリーのデザイナーをしながらアパレルブランドもやり曲も作っているという20代前半の少年。どうやったらそんな人生に行きつけるのか、大阪でロクにやりたいことや将来のことも考えず学生時代を過ごしてきた自分には想像もつかない。某ブランドのオーナーの人も上司が仕事で接点があるらしく意外と距離が近そう。こういう展示会で身内同士っぽい人たちの中に自分が入っていくのはすごい苦手だけど、来てよかった。
 その後は誘ってくれたフォロワーの人とともに原宿に今年できたハンバーグ屋へ。いわゆる「挽肉と米」的なハンバーグと米推しのお店。正直ハンバーグが美味しいからというより米が美味いから成立してる気がするが、それでもいいぐらい白米が美味しい。今年子どもが生まれライフステージが変化しつつあるその人の話に、その変化を経験していない自分が答えても説得力ないなと、毒にも薬にもならない相槌を打っていた気がする。7歳下の女の子に「あんま年上感ないですね」って言われたアレ、あんまり良いことじゃないんじゃないか。

22│11│MISSING TEETH

■某日
 冨樫義博展のために六本木の森アーツセンターギャラリーへ。小学生の頃から家には幽遊白書の漫画があり、当時夏休みには毎朝アニメの再放送を3年連続ぐらい見ていた。HUNTER×HUNTERは人生のベスト漫画の一つには必ず入る。それぐらい冨樫義博という漫画家は自分にとって重要な漫画家なので、この展覧会が発表された時から絶対に行こうと決めていた。
 展覧会は大きく幽遊白書レベルEHUNTER×HUNTERと作品ごとにゾーンが分かれている。
 入り口を飾るのは歴代の幽遊白書のキャラクターたち。いや、全員見覚えあるけどマジで半分も名前が出てこない。冨樫義博の大ファンですというツラでやってきた自分の自意識が恥ずかしすぎるも「あれ、このキャラなんだっけなー知ってんだけどなー」顔を誰も見ていないのにしてみる。
 幽遊白書は自分が生まれた年に始まった。マジか。第1話が掲載されたジャンプが展示されていたがとてつもなく古いし時代を感じる。こいつと同い年ってことはおれもとてつもなく古い時代を感じる体ってことか。それは体が衰え始めるのも納得。原画を見ているうちに、薄れていたはずの幽遊白書の記憶が鮮明に記憶が脳内でクリアになっていく。数々の名シーン。これめっちゃ覚えてる!!懐かしいなー。うわー!!!原画を見る度に感情が動く。モノクロの写真が色づいていくように、自分の少年期が掘り起こされていくような感覚は、この作品がどれだけ自分の記憶に染みついているかを表していた。生で見る原画のその繊細さと線の美しさに驚く。漫画家の人マジですごい(それはそう)。今思えば小学生の当時は幽遊白書をただのバトル漫画として捉えていた気がする。ただ原画で断片的にもストーリーを追っていくうちに、魅力にあるキャラと記憶に残るセリフ、そして練られた設定に、今この瞬間にもう一度幽遊白書の世界にのめり込んでいった。今読み返したらこれ絶対もっとおもしろい。連載開始から20年以上経っていてもそう確信できた。
 続くレベルEゾーン。…レベルE読んだことがない。冨樫義博の大ファンですというツラでやってきた自分は今この瞬間デジタルタトゥーが残るぐらい炎上させられても文句は言えない。マジで何も知らないので捕捉として書かれたあらすじと大まかなストーリーと登場人物を追う。てかSFなのか。てか幽遊白書より前の作品だと勝手に思っていた。でもこちらも原画を追っていくだけでも、これが終わったら絶対レベルE読むわと思わされる魅力が詰まっていた(実際にレベルEはこの後全部読んだ。キャラの魅力は幽遊白書HUNTER×HUNTERほどではないけど設定の妙と斜め上いく話の展開がおもしろい。あと絵がマジで冨樫。冨樫義博ファンは読んだ方が良い(それはそう))。
 そして最後のHUNTER×HUNTERのゾーン。わかる、全てわかるぞ!!冨樫義博の大ファンですというツラでやってきた自分がバリバリにドヤ顔していた。ただHUNTER×HUNTERでさえも自分が小学2年生の時に連載がスタートしていて、幽遊白書からたった8年しか経っていないのが信じられない。24年連載していて未だに単行本が37巻までしか出ていないのも信じられないが。小学4年生か5年生の時に、自分の誕生日に友達がHUNTER×HUNTERの3巻~5巻の3冊セットをプレゼントしてくれたのは未だに覚えている。誰がくれたかは忘れてしまったけど。
 原画が見れるだけでも嬉しいのにこのゾーンでは現在進行形で進んでいる王位継承戦のテーマや冨樫がメモにまとめていた念能力の設定が見れたりなど今HUNTER×HUNTERを読んでいる人にはたまらない内容もあり脳汁が出る。そしてあるシーンの原画コーナーでは、生まれて初めて漫画の原画を見て泣きそうになってしまった。そのぐらい印象深いシーンであり、その感動がもう一度伝わってくる展示だった。そのあと幽遊白書のカラーの原画を見てもう一度泣きそうになった。こんなの初めて、を素で言う瞬間がくるなんて。あと最後のコメント出してる漫画家と著名人の人のラインナップ凄いわ。
 1時間ちょいで終わるかとタカをくくっていたらグッズコーナーまで含めると2時間半ぐらい居座ってしまった。改めて冨樫先生が今も漫画を描き続けてくれていることに感謝。1日1万回の冨樫先生への感謝の正拳突きで音を置き去りにしたい。感謝するぜ お前と出会えた これまでの全てに!!!

■某日
 毎週恒例となった歯医者の日。1か月ほど前に前歯(もしくは歯ぐき)にズキズキとした痛みが走り、翌日すぐに歯医者に行ったところ、以前歯を折って神経が死んだ部分の根に膿が溜まり、なんやかんやそこそこ深刻なことになっていると宣告され、そこから毎週歯医者通いの日々が始まった。既に一本差し歯なのにそれを入れ替え、更に治療のためにもう一本差し歯にせざるをえない可能性があり、その場合は30万かかりますという突然の宣告。事故や病気に遭う人はこういう感じなんだろう。その日の朝、そんな目に遭うなんて微塵も思ってもいない。子どもの頃に歯を折った時は親がこのお金を出してくれてたんだな。以前は親に甘えられていたが、今は自分の身に降りかかるものを全て自分の責任で処理しなければならない。30万かかりますと言われて「いや、余裕っすよ」という顔で30万払わないといけない時、成人式や初めてお酒を飲んだ時や健康診断でC判定が出た時なんかの1000倍ぐらい自分が大人になったのを痛感した。あと何回通わなければならないかは担当の先生もわからないらしい。最悪は一本歯を丸々抜くことになるかも。マジかよ。今年はホントにツイてない。
 以前より丁寧に時間をかけて歯を磨くようになったその時間、ずっと空気階段の踊り場の過去回を聞いてる。もぐらの歯が8本ない話。リスナーからの、おそらくおれと同じ病気で20代にして歯を抜きインプラントを入れたというメール。笑い話でありながら励ましにも聞こえる。おれの歯医者治療体験も、いつかどこかの誰かの気休めになってほしい。仲間がいるぞと、どこかにいる差し歯仲間に念を送る。

■某日
 東京ドームへ櫻坂46のライブを見に行く。2ndツアーのファイナルであり、欅坂時代からキャプテンを務め続けてきた菅井友香の卒業セレモニー。
座席は初めて座るバルコニー席。床はカーペットだし、ラウンジのような休憩スペースもありなんか他の席よりイイ感じな気がする。ただチュロスが自分の想像していたチュロスと全然味が違っていて半分ほど残してしまった。

 乃木坂と櫻坂(欅坂)と日向坂の所謂坂道3グループのライブにはそれぞれ何度か参加しているが、楽曲もライブの演出も櫻坂(欅坂)が一番好きだった。この日も開演から最初のMCまでの間はペンライトの点灯は禁止。スクリーンやステージセットを駆使して楽曲の世界を現実に拡張させていく。欅坂時代からだが、乃木坂&日向坂と櫻坂(欅坂)のライブの違いは楽曲を表現する上でのメンバーへの焦点の当て方だと思う。櫻坂(欅坂)では時にメンバーの表情が見えないぐらい暗い照明が使用されることもあり、いかに楽曲の世界観を再現させるかという点に注力されているように感じる。
 本編は大好きな"断絶"と"ずっと 春だったらなあ"が遂に聴けて感無量。そしてモニターに抜かれる天ちゃんが全場面で天才的な表情を見せていて、言葉にはしなくてもセンターとして櫻坂を背負って立つメンバーだという確信を得た。天ちゃんがアイドルでいる限りおれはオタクを続けるよ。あと"制服の人魚"の武元のビジュアルが強すぎて「ほんとに武元?」って100回ぐらい虚空に聞いた。
 そしてアンコール。数年ぶりに生で聴く欅坂のOvertureとともに、ゆっかーの7年間の写真がモニターに映し出される。この時点でもう自分も周りも鼻水をすすり涙が止まらなかったが、その次の一曲でまさかの"不協和音"のイントロが始まり自分も周りも思わず声にならない声が漏れる。欅坂を壊したと言っても過言ではないこの曲は呪いのようでもあり、ゆっかーがANNIVERSARY LIVEでセンターで披露するまではほとんど封印されていた(ように記憶している)。その曲を自分の最後のライブで選んだゆっかーの意志と覚悟に、自分の中に未だくすぶっていた「欅坂の曲聴きたい亡霊」が成仏できたような気分。ゆっかー本当にありがとう。もう思い残すことなはい。
 最後のセレモニーではメンバーが一人ずつゆっかーへ宛てた手紙を読み上げる。土生ちゃんの手紙と声と表情が友情を具現化したような美しさで本当に胸を打たれた。あんな土生ちゃん一度も見たことがない。こんなオタクたちに二人の関係性を見させていただいてありがとうございます。最後のセレモニーで何人もの1期生が「もっとゆっかーを助けられたかもしれない」と話していて、改めて欅坂時代からゆっかーがキャプテンとして一人で背負ってきたものがどれほど大きく過酷なものだったかを感じる。今この瞬間に櫻坂を見れているのはゆっかーがいたおかげだと心から思った。本当に本当にお疲れ様でした。
 ただライブから数時間後に前日のセトリを見たら"10月のプールに飛び込んだ"と"世界には愛しかない"をやっていて愕然とした。自分が一番聴きたかった2曲。なんで配信やらないねん絶対許されないやろ。いけない現場はなかった現場、とはならない。もう二度とない一瞬を見逃しまくりながら生きてる。また一つ後悔が生まれた。井上が手紙の中で言ってた。「友香さんが残したものは櫻坂の中に残り続けます」。井上が言ったことはこういうことではない気はするが、ゆっかーが残したものが自分の中にもできた。いつか訪れるその一瞬を見逃さないためのお守りに、これがなってくれたらいい。

22│10-11│Strawberry Margarita

■某日
 会社の先輩に誘われ人生初のゴルフの打ちっぱなしに行く。父親がゴルフが好きだったのでゴルフ自体には馴染みはあるが、自分はゴルフをやる側の人種ではないと思っていたのでまさか。事前に初心者向けレッスンの動画を見て予習していったものの、見るのと実際に打つのは全く違う(それはそう)。先輩にフォームと打つ時のコツを教えてもらい、なんとなく前には飛ぶし、たまにまぐれでイイ感じのショットが打てる時もある。でもフォームを意識すれば意識するほど、どうやってそのまぐれ当たりが起きたかがわからず、打てば打つほど正解を見失い迷宮入り。反復練習が逆効果起こしてる気がする。再現性ゼロ。マジでムズイ。あとフォーム気にしなきゃいけないところ多すぎ。おまけに腰にくる。
 でも先輩にゴルフの良さを懇懇と教えてもらう内になんとなくコースに出てみたいという気持ちにもなった。ゴルフならおじさんどころかおじいちゃんになってもできるしな。あと気持ちよく打てた時は気持ちいいし楽しい。マッチングアプリでゴルフ好きっていう女の子と話すネタにもなる(するな)。
 人生経験程度のつもりで来たけど、やっぱ何事も自分でやってみないとわからない。ストレイテナーの"羊の群れは丘を登る"、ことあるごとに思い出す。

この目で見て確かめるまで 何ひとつ信じられないよ
きっとまだ見ぬ景色が そこには広がっているだろう

ストレイテナーの"羊の群れは丘を登る"

ってな。

 今バンジージャンプとボクシングとギターやってみたい。会社の人にそのこと話したら「意味がわからない」って笑われたけど。


■某日
 エルレの新曲"Strawberry Margarita"を聴く。配信日前日に突然謎のティザーがアップされ、その翌日には配信のスピード感。前作の"Mountain Top"はMONOEYESにも近いサウンドだったけれど、この曲はイントロを聴いた瞬間エルレだと思った。生方さんがアルペジオ弾いてたらエルレなんかと言われたら安直だが。でもエルレだと何より歌詞が違う。
 MONOEYESからは1stの"Run Run"や2ndの"Two Little Fishes"では「逃げようぜ」、3rdの"Fall Out"は「抜け出そう」と、それはどこかまだ知らない場所に冒険に出ようという意志よりも、王道を外れても、気の置けない仲間たちとこのままずっとこうして生きていくという意志を感じる。手の届く範囲の、側にいる人たちのためのコミュニティの音楽。それは東北の仲間のために組んだバンドという成り立ちが影響しているのかもしれない。
 対照的にこの"Strawberry Margarita"は「Step out(踏み出す)」。まだ見たことのないものに出会うために、何かが足りないこの場所から、新しい場所に旅立つ。エルレにもクラスの隅っこにいるような、周りとなんか違うんじゃないかって感じてる人たちにとっての居場所の側面はあるが、それ以上に曲からは満たされなさと、新しいことへの挑戦やまだ見ぬ場所への冒険心を感じる。

 そして"Strawberry Margarita"からは、前作アルバムから16年という年月も感じた。この曲を聴いた時"No.13"を思い出した。爽やかで疾走感のあるイントロ。旅に出る者の歌。でも"No.13"は旅立つ人を見送る歌だった(そしてその人はきっと戻ってこない)のに対し、"Strawberry Margarita"は一歩踏み出そうとする自分をとどめようとする何かの歌だ。

 今エルレが回ってる「Lost Songs Tour 2022」の感想をTwitterで検索した。付き合ってる恋人のSNSを見てもいいことがなんもないように、チケット全部外れたから調べても羨ま死するだけなのに(案の定セトリを見て希死念慮に襲われる)。その中にファンの人が"Strawberry Margarita"を披露する前の細美さんのMCをレポしてる人がいた。
 自分が直接聞いたわけじゃないし、そのレポ書いた人もうろ覚えだというエクスキューズをつけるけれど、要約すると『細美さんの奥さんが表に方位磁針、裏には〈Best Travelers Award〉と、細美さんを世界一の旅人だと表彰したデザインのネックレスを細美さんにプレゼントした。そして方位磁針には「どこまで行っても帰ってきてね」っていう意味がある。そうして人生が変わったって歌が"Strawberry Margarita"。』(超意訳)https://twitter.com/ro_yta/status/1587428584225853442?s=20&t=-GBDyVj4-aMoaUtACgvTlg

 そのレポを読んで自分の中で歌詞の変化が腑に落ちた。そして改めて曲を聴いたら、最初に聴いた時よりも更に何倍もいい曲に聴こえた。
 細美さんも年を取った。それはおれが高校生ではなくなり、それなりの責任を自分自身でとらないといけなくなってきてるように。当たり前のこと。
変わっていくことは寂しいことか。もちろん寂しい時もある。でも変化を目の当たりにすると、歳重ねながら、同じ時代を一緒に生きてるなって感じられる。


■某日

 10月に好きだった曲をまとめる。先月よりも追加した曲が多い。9月は全然音楽聞かないぐらい色々ヤラれてたのがこういうとこでわかる。
 SHO-SENSEI!!の『The Telescope』が自分の好きな要素だけでできたようなアルバムでかなりハマった。いつまでたっても青臭いものが好き。ワンマンは仕事で行けなかったので2月の対バンは行きたい。

■某日
 Teleのワンマンのために東京キネマ倶楽部へ。初ワンマンとは思えない完成度。サポートメンバーが全員ハイレベルなのはもちろん、Tele本人の物おじしないパフォーマンスに「ほんとに初ワンマン?」とビビる。
「思想のない音楽は鳴らしません。理想のない言葉は使わない。希望のない未来なんて意味がわからない!」
というMCが強く残っている。言い切るのは勇気がいる。でも人に勇気を与えられるのは勇気を出した人間だけかもしれない。
 "夜行バス"、ライブで聴くとアウトロに毎回痺れる。新曲の"ロックスター"、こういうこと歌ってくれる人間が好き。"誰も愛せない人"、諦めてるけど諦めてない音楽。

 リアルが求められる時代に「素晴らしいフィクションになる」と言ったTeleが作る音楽、本当に楽しみ。

22│10│-Mémento-Mori-

■1日目

そうだ 京都、行こう。」

ではないけれどなんとなく「京都行こうかな」という気分が人生で一番高まっていたので京都に行く。
 理由らしい理由は特にはないけど、アンディ・ウォーホル展行ってみたいなと思っている時に、会社の先輩にミスチルの『深海』というアルバムのジャケ写がアンディ・ウォーホルの〈小さな電気椅子〉がモチーフになっているという話を聞いたり、そういえば一度も会ったことないフォロワーの人が京都にいたなと思い出したり、そもそも京都旅行を一度もしたことないことに気づいたり、あとこれは結果論だが失恋したてだった自分にとって、京都はやれ縁結びだなんだという恋愛運が高まる(ということになっている)神社がかなり多く、意図せず傷心旅行のような半ばヤケクソのように神頼みをしまくる旅になったので、自分にとってはこのタイミングで行くことに意味があったのかもしれない。

 数年ぶりに乗る夜行バス。大学生の時に就活で面接を受けるために大阪から東京に何度も夜行バスで通ったのを思い出す。全部落ちたけど。最終面接で交通費を出さなかった某メーカーのことはまだ忘れていない。10年前の当時と比べると夜行バスにもハイグレードのプランも増えていて、自分が乗ったのもベビーカーのように照明を防ぐために頭上にかぶさるカバーと座席同士の間に仕切りがあるタイプで、これがあるだけでも睡眠の質はかなり変わった。車内アナウンスには当然のように韓国語が流れてきて、当たり前だけどあの頃とは違う。日曜の夜でも混雑する夜行バス乗り場で「この人の数だけ人生があるんだな」っていう、新幹線に乗って通り過ぎるマンションの灯りを見てる時に感じるあの感覚になった。一本前のバスに乗るはずだった外国人観光客が乗り遅れたことに号泣していたり、バスに乗り込んだら自分の席のはずの場所に既に人がいて爆睡していたりと、幸先はまあまあ悪い。

 朝の7時前に京都駅に着く。早朝の京都は想像してたよりも更に寒い。ほぼ冬の空気。夜行バスのプランに付いていた近場のホテルの大浴場の入浴券を使って、寒さと夜行バスで凝り固まった身体を可能な限り回復させ、とりあえず京都駅で有名らしい喫茶店でモーニングを食べる。

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小川珈琲。京都はパンが有名らしいと京都出身の人に教えてもらった。
ただのトーストだけれど生地がモチっとしていてめちゃくちゃ美味しい。
こういう朝ご飯を毎朝余裕ぶっこいて食べれる生活を送りたい。太りそうだけど。

 お風呂に入ってモーニングを食べてもまだ朝の9時頃だったので、夜行バスは睡眠と肉体は犠牲になるが時間を有効利用できるという点ではいい。時間を持て余していたので、朝から知り合いに連絡して教えてもらった貴船神社に向かう。
 貴船神社はその日の朝まで一度も聞いたことがなかったけれど、調べてみると水の神様が祀られているらしく、おまけに縁結びの聖地でもあるらしい。自分はみずがめ座で、四柱推命でいう所の五行も水属性らしく、水の神様と言われるとめちゃくちゃ親近感が湧いてくる。おまけに失恋したての身に縁結びの神社。「これはおれは行かないといけないやつやん」という謎の旅テンション。

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貴船神社

 貴船神社京都市から北側の山中にあり、中心部よりも体感で空気がもっとひんやりしている。平日の朝一だったからか観光客もそこまで多くなく、落ち着いていてかなり居心地がいい。本宮、奥宮、結社の3か所全てで「好きな人と結ばれますように」という煩悩の極みのような願い事をする。DJ松永が朝井リョウと初詣に行った際にお賽銭に15万使ったことを思い出し、自分も諭吉ぐらいぶっ込むかという謎の旅テンションに6秒ほどなるも1.8秒後には我に返り5円を投げ入れた。やっぱご縁が大事なので。

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水は命(それはそう)
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水に浸すと文字が浮かび上がってくる水占い。
恋愛「三人ありて違うことあり 心を定めよ」
や、1人もいないが?
というか全般良いこと書いてないな

 お昼は市内の中心部に戻り教えてもらったカレー屋さんへ。どこで食べてもカレーは美味しいから偉い。

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ムジャラ。チキンと豚ばら2種盛り。
周りに添えてある名前のしらない総菜的な何かが充実しているスパイスカレー屋は良いカレー屋。

 その後は今回の旅行の目的の一つであるアンディ・ウォーホル・キョウトに向かうため京セラ美術館へと移動する。が、

「休館日」


 いや、なんか人少ないとは思ったけど。調べなかったおれが悪いけど。

 ただでさえスカスカの旅程の中で2時間ぐらい見ていたスケジュールが空きになり手持ち無沙汰に。やることも考えてなかったのでとりあえず行く予定だった清水寺に早めに向かう。

 道中で安井金比羅宮に立ち寄る。有名な縁切り縁結び碑は長蛇の列。「衆人環視の中で独身男一人で岩をくぐって悪縁を絶ち、縁結びを願う様を大衆に見られる恥を晒すぐらいならおれは悪縁と生きる。」という自意識がえぐすぎて「好きな人と結ばれますように」という本日4度目のお願いをしておみくじを引いて帰る。財布にはもう5円はないので100円玉を賽銭箱投げ入れる。ご縁もクソもない。

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末吉の人生

 清水寺が近づいてくると明らかに観光客の数が増えてきた。浴衣を着たカップルに外国人観光客、修学旅行生まで。平日に休みを取ったけれどそんなの関係ないぐらいの人込み。自分の中学の修学旅行は長野県で、本当はラフティングをするはずが前日の大雨で川が増水し中止。全員まとめて黒部ダムに連れていかれたことしか覚えていない。返してほしい、おれの青春の1ページ。

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清水寺へ向かう途中で寄った高台寺。お前も恋人の聖地とか言うのか。

 人生初の清水寺はそのスケールの大きさと「これが!あの!」という既視感を実際に体感できて結構感動した。「胎内めぐり」は閉所と暗所が苦手な人以外には是非オススメしたい。暗すぎてめちゃくちゃテンション上がるので。そして本堂で「好きな人と結ばれますように」と本日5度目のお願い、音羽の滝で6度目のお願いに勤しむ。小銭を投げ入れ神様に股を開き続けるおれが悪いんじゃない。ただ神様が多すぎるんだ。イスラム教信者は神様だらけの京都に来たらどう思うんだろうか。おみくじも引いたが末吉じゃなかったのでなかったことにし、フォロワーの人に会うために河原町の方へ戻る。

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これからは「清水の舞台から降りる」ということわざにリアリティ感じてリアクションできる。
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清水寺の帰りに寄ったloose kyoto。ドーナツのサイズのちょうどよさ日本一説。
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ギャラリー兼ショップのVOU / 棒で買ったステッカー。京都の人はシャイらしい。
お店の人にオススメしてもらった南禅寺は今回行けなかったので次は行きたい。

 夜は京都で働くフォロワーの人に会う。Twitterとインスタ両方で4,5年?もうどれぐらい相互フォローか覚えていない。ただその期間もやり取りしたのは2回ぐらい。最初は実際に会って気が合うかわからなかったので連絡するか迷った。でも失恋したてで謎の失恋ハイ(ランニングハイ的なやつ)になっていたので「嫌われたくないと思っても嫌われる時は嫌われるし、せっかくなら仲良くなれる可能性に賭けて会った方がいい。ダメならいつどこで会ってもそこまでの関係。」と思い切って連絡してみたら会ってくれることになった。実際会ってみたら最初の心配は杞憂に終わり、良い人で話していても楽しかった。勇気出して連絡してみるもんだなーというバカみたいな感想を抱く。次会った人とまた同じように仲良くなれるかはわからないけど、それを理由にビビッてこういう日を逃してしまうのはもったいない。どんだけ大事にしようと思っていても終わるもんは終わるなら、賭けに出てみた方が良いこと待ってるかも。ありがとう失恋ハイ。お土産に阿闍梨餅をもらい別れる。

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2軒目で行った喫茶店。1軒目は写真を撮り忘れ、2軒目はなんてお店か名前を忘れてしまった。
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フォロワーの人におすすめしてもらった銭湯。ローカル感が強いので自分のような人見知り陰キャには事前準備が必要。水風呂の水が美味しい。

 お洒落なホテルに泊まりたい!と予約したホテルはお洒落指数が35000ぐらいで失敗した。部屋にもアートが飾ってあるのが売りだが、疲れた体にはアートじゃなくて温かい湯舟とふかふかのベッドが欲しい。次は大浴場のあるホテルに泊まるという決意を胸にベッドに入り1日目を終える。

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逆に落ち着かない。

■2日目
 貧乏性なのでどれだけ眠くても「せっかく旅行に来たから」精神が勝つのでチェックアウトの2時間前にホテルを出発し、京都出身の知り合いに教えてもらったモーニングを求め町を歩く。平日の朝は流石に人も多くなく静かで散歩も気持ちいい。

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チロル。塩をふりかけて食べるトーストたまごサンドはめちゃくちゃ美味しい。
ただ量は一人ならハーフで十分。この選択ミスで昼食と間食の選択肢が大幅に減った。

 モーニングの後は昨日のリベンジで京セラ美術館に向かう。人が吸い込まれていくエントランスに安堵しつつ、階段を上がっていく。

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音声ガイドの飛鳥ちゃん。テーマソングはKing Gnuの常田とソニー臭がすごい。
館内のQRコードを読み込むと、音声ガイドの代わりにその日だけアクセスできるサイトへと飛ぶことができ、ナビゲーターの音声と3種類のBGMを聴くことができた。
高木正勝の「Andy」のアンビエントサウンドがとにかく最高でずっとそれをループし続けていた。

 自分の中でアンディ・ウォーホルと聞くとビビッドなカラーを使ったキャッチ―なポップアートの人というイメージが強い。ただこのアンディ・ウォーホル・キョウトは、イラストレーターとして活動していた初期や京都旅行からインスピレーションを得た頃の作品から晩年までの彼のキャリアを振り返る大回顧展になっており、特に後半の死を扱った作品群が強く印象に残り、自分の中のアンディ・ウォーホルのイメージが塗り替えられるものになった。

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骸骨と写った自画像。「死を忘れるな」という意味だと飛鳥ちゃんが言っていた。

 今回の旅行のきっかけの一つになった〈小さな電気椅子〉を見つけて心臓が跳ね上がる。きっかけにはなったがここに本当に展示されているとは思わなかったから。ミスチルのアルバム『深海』のジャケ写のモチーフになったと言われていて(ボーカルの桜井さんが提案したらしい。真偽は不明。)、『深海』ではオブラートに包まれていた死のイメージが、この作品でははっきりと浮かび上がる。

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 好きな人がいた時「付き合えたとしても別れるかもしれない。結婚できたとしても離婚するかもしれない。全てが上手くいってずっと一緒にいれたとしても最後には死別が待っている。それってめっちゃ悲しくない?」みたいなことを付き合う前から考えていた。そもそも付き合えてないんだけど。でもそういう感じで常に自分の中には最後には"死"があるというイメージはずっと抱えている。でも死が待っているから意味がないのではなく、死が待っているから今に意味がある。という古風なロックスターみたいな発想に繋がっている部分がある。

 ミスチルの『深海』はすごく暗いアルバムだけれど、ラスト1つ前の"花─Memento-Mori─"はメロの暗い歌詞とは対照的に、サビでは力強く前向きな言葉が並べられている。
 自分は劣等感とコンプレックスの塊のような人間だけれど、それがあるからもっと頑張らないといけないと自分を鼓舞できている。ネガティブな発想が先にくるけど、それは大事にしたい、諦めたくないという思いの裏返しだ。絶望と希望は同じものだっておれの一番憧れている人が言っていた。花に「生」を見るか「死」を見るか。「死」を見た時、だからこそその儚さと尊さと美しさに気づけるのだと思う。眼前にある〈小さな電気椅子〉と"花─Memento-Mori─"を通じて自分の死生観を一周して眺めなおす。

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お土産として買ったポストカード。
可愛い猫のイラストや象徴的なキャンベルのスープ缶よりも骸骨の方が好き。

 アンディ・ウォーホル展を終えた後ポスターが気になったので、勢いで同時開催していたボテロ展にも入ってみる。

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コロンビアの画家フェルナンド・ボテロの生誕90年を記念した展覧会。

 ボテロがマンドリンを書いている時に自身の作家性(丸みを帯びたフォルムの美しさと独自性)に気づいた話や、彼の絵はコロンビアやメキシコの当時の市井の生活や宗教・政治が反映されており、時代考証の資料としても優れているという点はおもしろかったが、個人的には絵そのものへの関心があまり高まらなかったので早めに出てしまった。
 結局自分は学術的な評価や歴史資料としての希少性のようなものよりも、自分がその作品を「なんか好き」と思えるかどうかが一番大事らしい。そのアーティストが有名でなくても、その作品に高い評価や意味、資料としての価値はなくても、タッチが好きとか色使いがかっこいいとか雰囲気が良いとか、そう思えるものの方が見ていて楽しいしわくわくする。だから博物館あんまりおもしろいと思わないんだな。
 ちなみにボテロ展にはスペシャルサポーターとしてBE:FIRSTが参加しており、音声ガイドで彼らのコメントも聞くことができた。アーティストと美術展のコラボみたいなの最近多いのか。

 ボテロ展を終えた後は2日続けてカレーを食べる。ここは知り合いやフォロワーさん何人もから勧められた。どこで食べてもカレーは美味しいから偉い。

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スパイスチャンバー。口に入れた瞬間の辛味ではなく食べてるうちに奥から感じるスパイスの辛さと旨味がある。量を大・中・小で選べるのありがたい。

 午後は嵐山の方に移動し、野宮神社で7度目のお願いをする。7回もお願いしたのでマジ結果出してもらってもいいですか?

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渡月橋。嵐山っぽい。

 本当はトロッコ列車にも乗りたかったが時間がなくなりそうなので今回は断念。天龍寺も見てみたけど、お寺は神社よりもあんまり興味がもてない。あと天龍寺のトイレはトイレットペーパーがなく危うくノーパンで京都を歩き回る羽目になったので、その拝観料の500円で今すぐトイレットペーパーを買ってきてくれ、これ以上犠牲者を生む前に。頼む。

 まだ夕方だったが陽が落ちるのが早くあたりは暗い。あと少し来る時期を後ろにズラしたら紅葉が綺麗だったかもしれない。その時期にまた来るのもいいな。

 東京駅でラーメンを食べて帰りたかったので早めに新幹線に乗り東京に戻る。

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東京駅の雷。1時間並んだよ。でも並んででも食べた久々の二郎系おいしかった。
しかしなんで君は京都でラーメンを食べるという発想がなかったんだろうね。

 東京駅に到着すると「戻ってきた」感がすごい。地元は大阪なのに東京駅にそう感じるようになった自分は立派な東京の人間かもしれない。

 そもそもが貧乏性で「移動に金使うのもったいない」と思っていたので、今までは出張ついでに観光地によるみたいなことでしか旅行らしい旅行はしてこなかったけれど、今回一人で京都行ってみて「旅行っていいな」というバカみたいな感想を抱く。大仰なことをしないといけないみたいなプレッシャーなく、まあ無駄になってもいいかぐらいの気持ちで行ったことのない場所に行くのは気分転換になる。知らない町、歩くだけでも楽しい。何より自分の中の空白地帯に思い出と景色が書き加えられているような気持ちにもなる。

 次は直島行きたいな。もしくは青森か秋田。行きたい・やりたいと思うことは、ノリがあれば明日にでもできる。まあ現実問題は休みやお金の問題は考えないといけないけど、勢いでワンクリックしてしまえば、あとは意外と勝手に自分の世界は動き始める。




 5カ月近く毎週書いていた日記を先週ついに書き損じた。頑張りすぎないようにしようと始めた日記も、なんかオチつけたり筋道整えたりしようとカロリー使い始めてるので、もっと「コンビニ弁当食べて寝た」みたいなオカモトのコンドームぐらい内容薄いなんにもならない日記を書きたい。
「無駄なことを 一緒にしようよ」って、それを"Joy!!"ってSMAPは歌っていたからな。最近「何もしないをする」ことに興味がある。まあ今回3週分ぐらい書いたからいいか。

22│10│Being Funny in a Foreign Language

■某日
 仕事で幕張に行く用事があり、帰りに会社の人たちとコストコに行くことに。人生初コストコ。話で聞いていた通りあらゆるものの容量が多い。ちょくちょく欲しいものを発見するものの、「これ一人暮らしにはいらないな...」と結局は諦めることを繰り返す。そもそもコストコに1人で来てるような人はほぼいなくて、家族連れやカップル、友だちなど複数で来ている人がほとんど。自分は「これもうちょっと量少なかったらな」と思うが、コストコ側は自分のような人間はそもそもお呼びではないだろう。帰りの車中で人生初コストコの感想を「自分みたいな人間が来る場所ではないんだなって思いました」と言ったら全員からネガティブだなとツッコまれ、自分ってやっぱネガティブな人間なんだなと再認識した。せっかくだからとコストコで買った寿司、家で一人で食べてたらやっぱりちょっと量多くて、少し無理をして食べ切った。

◼︎某日
 ダウ90000の新作演劇公演『いちおう捨てるけどとっておく』を見る。新宿シアタートップスには初めて来たけど、まさか太古の昔マッチングアプリで知り合った女性と新宿でご飯食べる際に使っていた韓国料理屋の上にあるとは。客入れBGMでKANA-BOONの"盛者必衰の理、お断り"が流れていて、こういう邦ロックとこのぐらいの規模のこのジャンルの劇場の不思議な相性の良さを感じる。客席を見渡すとお笑い評論家みたいな雰囲気の一般人が8割ぐらいを占めていた(ド偏見)。
 ダウの新作はセリフと設定のリアリティと精度の高さが相変わらず凄くてめちゃくちゃおもしろかった。実際には経験していないのに、なぜかその感覚すげぇわかると脳みそが錯覚起こすレベルの共感度。
 あとそこにいない人間をネタにして、欠席裁判的にその場にいる人間でその人をちょっと小馬鹿にするような笑いが年々苦手になっていて、このダウの舞台にもその種の笑いの取り方が出てきたけれど、ダウの場合は劇中のキャラに反論をさせたり、そのやり取り自体をメタ的に笑いにする部分があってそこに優しさを感じた。「人を傷つけない笑い」とか言われると冷めるけど、やっぱ優しいネタはいい。オチも救いがあってコントとしてだけでなく演劇としても後味の良い終わり方だった。おれはやっぱバッドエンドよりもハッピーエンドが見たい。あと夜パフェに入っているアルコールはマジでいらない。

 そういう意味で言うと最近やっていたオードリーが冠の特番「おるおるオードリー」は、ネタにされている側の人をただ揶揄しているような作りで、10年前なら多分そこまで気になってなかったんだろうけど、今見るとちょっとしんどいなと思ってしまった。「あちこちオードリー」のオンラインライブもかなりギリギリのラインではあるけど、若林の「逆ジョーカー」発言のような、ただ愚痴り合うだけで終わらない出口がその場の熱いやり取りから生まれるから救いがあるのかもしれない。愚痴りたい時はもちろんあるけど、その負のエネルギーをどう昇華させていくか。「逆ジョーカー」のキーホルダー買っておいてよかった。

■某日
 ダイヤモンドとフースーヤの2マンライブ『クレイジーダイヤモンド』をヨシモト∞ホールで見る。中身ゼロだけれどキレとリズムと語感とテンションで笑える最高にくだらないフースーヤが好きだ。劇場のコーナーは芸人同士の内輪ノリのような時間も多いけれど、劇場の客席で見ていると自分もその内輪に入っているような感覚になれて、本来の7割増しぐらいで笑える。だからその日のネタを改めて振り返ると「何があんなにおもしろかったんだ」となる。でもそんなネタで腹抱えて笑えるのが劇場の不思議であり魅力なんだと思う。『小学生の夏休みのような世界一ピュアな「セッ〇ス」で客席全員爆笑してた』って、今自分で思い返しても何があんなおもしろかったんだってなるもんな。
 ちなみにおれがこの日一番笑ったのは「ショート板東英二」。マジで記憶の片鱗を辿っても意味がわからない。

■某日
 THE 1975のニューアルバム『Being Funny in a Foreign Language』を聴く。3曲目の”Looking for Somebody (To Love)"を聴いた時点で、自分にとってこのアルバムはTHE 1975史上最高傑作のアルバムになると思った。"Part of the Band"のようなオルタナティブフォークへのチャレンジなどはあるが、よりアコースティックで洗練されたサウンドでありながら、歌メロはキャッチ―で1stアルバムに負けないぐらいポップ。すっきりしていて聴きやすく、それでいて心地よくなるぐらい成熟してる。
 2年前の前作『Notes On A Conditional Form』はアルバムというよりは長大でジャンルレスなプレイリストのような作品で、オープニングの"The 1975"でのグレタ・トゥーンベリのスピーチ→"People"での性急なアジテーションに始まり、ジェンダーギャップの是正や気候変動、ソーシャルメディアとオンライン上での生活など、当時の時勢や社会問題へのバンド(もしくはフロントマンのマシュー)の意識が反映されているように感じた。2年前の当時コロナ前に運よく彼らのワンマンをロンドンで見ることができた時も、その社会へのコンシャスな一面が、当時の時代のムードや自分のフィーリングにもハマって好きだったことを覚えている。
 ただ今作はそういった現代社会への態度よりも、「真実の愛はあるのか?」という"愛"という一つのテーマにフォーカスされ、曲数も前作の23曲から11曲へとそぎ落とされている。そしてちょうど自分も失恋ほやほやなこともあり、今作のムードが自分のフィーリングががっちりとハマった。歌詞もかつてないほどストレート。全曲おれの気持ちを歌ってくれてるみたいだ。今『Notes On A Conditional Form』を聴き返すと、2年前の2020年のムードが切り取られているように感じるけれど、おそらく今作の『Being Funny in a Foreign Language』は、時代を超えて何年後に聴いても、その時の自分のフィーリングに合致する普遍的な作品になると思う。

I wanna get it right this time
今度こそちゃんとやりたいんだ

 今作で一番好きな曲。全てが美しい。
 
 前に「"I’m in Love With You"を好きな人の隣で聴きたい」みたいなこと書いた気がして、相手もいないのに来日公演の横浜のチケット1日分2枚押さえてるんだけどこれを渡す人は現れんのかな。まあ現れても現れなくても、どっちに転んでもライブはめちゃくちゃ感動できると思う。これは"愛"のアルバムだから。結局全人類にとって普遍的なものの一つが"愛"と定義される何かだという事実には逆らえない。

22│10│Too Good For Giving Up


 失恋ブログを書くのは2年ぶりだ。自分でももう少し明るいブログを書きたいと思ってるが、起こったことを書いてると自分の人生こんな感じらしい。正確に言うと告白のチャンスすらまともになかったので、失恋したと言うよりは砂時計の砂が落ちるのをただ待つように、好きという気持ちが自分からなくなっていくのを他人事のように眺めているような感覚だが。

 好きな人ができた。結局会ったのは2回だけで、連絡もロクに取ったことはなかったのでその人のことはよく知らないままだったけれど、これまで仕事やマッチングアプリSNSを通して会った人には感じなかった、その人のことを気づいたら考えてしまったり、また会いたいなと思ってる自分に気づいて、これは多分好きなんだろうなと思った。

 2回目会った後に3回目会う約束をした。1か月以上先で、仕事が入るかもしれないというエクスキューズつきで。この時点でもうないだろうなとは思ったけれど、もしかしたら本当に忙しいという可能性もゼロではないと、どんだけネガティブに考えても0.1%の奇跡に期待してしまう自分もいて、この0.1%の期待は何度捨てても絶対に部屋に戻ってくる呪いの人形みたいだった。
 おれの予想では『すみません、その日仕事入ってしまってダメそうです』「わかりました!他でいけそうな日あります?」『ちょっと予定まだわからないのでいける日あったら連絡します!』からのフェードアウトが最有力だったけれど、まさか「仕事で行けなくなった」という連絡すら来ないとは思ってなかった。そのパターンを想定していなかった自分はまだまだネガティブとして甘い。
 不思議なもので、約束した日の2,3週間前の「いつ連絡来るのかな?まあでも会えないだろうな。」って期待と諦めを行ったり来たりしてる時が一番辛くて、約束の日を1週間切っても何の連絡もなくて「これ、連絡来ないやつだわ」って、可能性が0%に近づけば近づくほど、気持ちは楽になっていった。期待するから辛くて、諦める方がずっと楽。それでも0.1%期待してしまう呪いの人形がいるのがやっかいだけど。
 0.1%の可能性を0%にするために、好きってことだけは言いたいなと思って、電話できるか聞くためにLINEして、そのメッセージに既読がつかないまま、今このブログを書いている。

 会わないとか好きじゃないは全然しょうがないけど、いつの間に既読もつけないくらい嫌われたのかと思うと、泣きたい気分になる。てか泣きたい気分って初めてなった。気づいたら涙出てる泣く時とは違って、「今泣けでもしたらちょっとは楽になるんだろうな。」っていう気分。どんだけ泣きたいと思っても、涙一滴も出てこないんだけど。ご飯食べ過ぎたり酒飲みすぎて気持ち悪くなって「今吐けたら楽になるんだろうな」ってトイレでえずいてみるけど、吐けずにずっと気持ち悪くて苦しい、アレの心臓バージョン。

 2回しか会ってない人をなんでそんなに好きになったかは自分でもわからない。ただそのおかげで、自分にとって好きっていうのは理由がわからないもので、でも理由はわからなくても好きってことはわかってて、相手を知っていくうちに、どういうところが好きかが言語化できていくってことなんだと思った。好きな人のタイプの話で「好きになった人が好き」っていうやつ、そういうことじゃねぇと思ってたけど、やっぱあれは正しい。
 だから好きになった人がどういう人か知りたくて、その人が好きって言ってたものを自分でも調べてみた。その人が好きっていう映画を見た。オススメされなければ絶対見なかったタイプの映画。見てみたら、すごくまっすぐな映画だった。繊細で、誠実でな映画。青色のイメージだった。見てよかったと思った。これが好きならあの映画とか、あの音楽とか好きかもなって浮かんできた。そう言えばもし電話できてたら、好きだってことと一緒に、付き合ってくださいではなく「あなたのことがもっと知りたいので、デートしてください」みたいなことを言おうと思ってた。デートしてくださいって中学生でも言わなそうだけど、自分の中に浮かんできた言葉がそれだったからしょうがない。まあ自分の中に浮かんだ全部、伝える日はもう来ないんだけど。

 期待と不安が行ったり来たりして辛い時、ラブソングを聴いてた。普段は「流行ってるのラブソングばっかやな」と斜めに見てるそれも、いざ自分がそういう状況になるとめっちゃ良く聴こえる。
 noteを開くと、全く知らないどこかの誰かのブログが並んでる。試しに読んでみると、恋愛ブログも結構多くて、恋してる人も失恋してる人もかなりの数いる。これだけ恋愛してる人が世の中にいるなら、そりゃラブソングもヒットするわ。ただ自分の場合はラブソングで歌われているような長い時間や深い愛を通過した後の離別ではなく、そもそも存在していなかった何かを間違って見ていたような幻覚から目が覚めたような感じだから、めちゃくちゃ共感するとも言えない。

 特に気分が落ちた時はスキマスイッチの"藍"を聴いた。15年前は歌詞に共感とか全くしなかったけど、今はサビの歌詞まんま自分ごとのように聞こえて、スキマスイッチ天才だなと思ってる。
 その人とLINEをしてる時に好きな色が何色か聞いてみた。「藍色」と返ってきた。運命って言葉はあまり信用してないけど、パズルのピースがハマったような感覚になる偶然には何度か遭遇したことある。ただ求めてたのはこんな死亡フラグではないから、次は運命の赤い糸的なやつでお願いしたい。

 死にたい気分になりながら2年前に書いた失恋ブログを読み返してみた。おれこんなこと考えてたんだなってなるぐらい、その時の気持ちのほぼ全部今の自分の中に残っていなかった。
 小学生の時に階段でこけて、膝の部分の肉がパックリ割れて縫うことになった。その時の傷は今もうっすら膝に残ってる。でも触っても痛みはもうない。
 この人のことを自分は好きだったってことはずっと忘れないと思う。でも会う時すごい緊張したかとか、連絡待ってる時(来なかったけど)やきもきしたかとか、ダメだろうなって思った時は落ち込んだとか、そういう感情はいつか全部忘れる。
 痛みはなくなって、傷跡だけが残る。そういうもんだと思う。

何億年も前につけた傷跡なら残って
消えなくてもいいさ 痛みはもうないからね

ELLEGARDEN「高架線」

 頭によぎる。この歌詞はこういうことだったのかもしれない。

 今はまだかさぶたにもなってない、流血しまくりの傷だけど、せっかくならしばらくはこれに浸っていようと思う。人を好きになったのも久々だし、バカみたいなラブソングに心から共感できる瞬間も、自分の人生にはあんまりないから。

 そして何か月後か何年後かわからないが、振り返ってこのブログを読み返した時、今抱えてるこの気持ち、全部忘れてたらいいなと思う。

 



 今の気分を端的に言うと間違いなく「死にたい」。だけど絶対におれは死なないってわかってる。

 最初この日記を書き始めた時タイトルは「藍」にしようと思った。これ嫌われてるのかもなって落ちた時スキマスイッチの"藍"をずっと聴いてて、藍色を好きな人にフラれた(フラれてもないけど)から、これも何かの偶然だと思って。でも細美さんのラジオでたまたまリアムの"Too Good For Giving Up"が流れた。

You're too good for giving up
君は(何かを)諦めるにはあまりに惜しい

Liam Gallagher「Too Good For Giving Up」

 99.9%ないってわかってることでも、おれの中の呪いの人形が、0.1%期待させるような夢を見せる。
 99通りの悪い未来を考えても、1通り、絶対に希望を持ってくる。
 思いついた後「いや、絶対ないやろ」って自分でツッコミたくなるような荒唐無稽な期待。それがあるせいで辛くて落ち込んで、でもそれがあるから、生きていける。

 この恋もこの自分の中の呪いの人形が見せる期待のおかげで結構辛かった。期待するから辛くて、諦める方がずっと楽。でもそいつは今は「この人と付き合えなかったから、行ける場所や出会える人がいるはずだ」って言ってる。すげー死にたい気分のネガティブな自分の中で、1人だけ空気読まずにめちゃくちゃポジティブなそいつがいる。どんな時も、絶対に諦めないそいつが自分の中にはいる。

 好きな人を諦めるとか、金なくてできないとか、そういうレベルの諦めはこれからもある。これからも期待してしまうことでしんどいとか辛い気持ちになることも腐るほどあるだろう。でもそれは自分のことを諦めてないから。
 良い人間になりたいって思ってる。それは自分が、今よりももう少しは良い人間になれると信じてるから。

 唾まみれのリアムが歌う言葉を、自分で自分に向かって言ってる。おれの悪いとこ全部見てきた自分は、おれの良いところも全部知ってるから。この呪いがあるから辛くて、呪いがあるから頑張れる。だからどんなに可能性が小さくても自分に期待し続ける限りは、おれはおれのことを諦めないでいられる。

 告白できてなくてフラれてないから「何か事情があって連絡できない状況なんじゃないか」とか考えてしまった時は、さすがに自分の情けなさと謎のポジティブに笑えた。でも実際フラれてなくて結果はわからないから0.000001%ぐらい可能性はあるだろ。
 この人生も、死ぬその瞬間まで答え出ないから、未来に良いことが起きる可能性がゼロだなんて誰にも言えない。

 まあこう書いてることも、失恋の痛みとともに数か月後には全部忘れてるかもしれないけどな。

22│09-10│無題

■某日
 「結婚したいと思う?」
 「子どもほしい?」

 自分みたいな32歳彼女無し独身男性にとってはこういう質問は踏み絵のようなもので、聞かれるたびになんて答えたらいいかわからない気持ちになる。

 本音を言うと「結婚したいか子どもほしいかわからない。したいっちゃしたいし、したくないっちゃしたくない。欲しいっちゃ欲しいし、欲しくないっちゃ欲しくない。どの人生もそれぞれの楽しさと大変さがあると思うけど、自分がどれを望んでいるか自分でもわからない。てかまず相手いないし。その相手によって自分の気持ちも変わるかもしれない。」であり、「結婚も子どもを持つのも自分一人の意志で決めれることじゃない。特に子どもに関しては男はどうやっても子どもを産めないから産むのは女性に任せなければならない(体外受精や人工授精、養子のような選択肢の話はここでは置いておく)。だから男が子ども欲しいって言うのもなんかおかしい。おれが経験しようがない大変かつ痛いかもしれないことをその人にさせることになるわけだから。だからこの人とはずっと一緒に生きていたいと思うような人に出会えたとしたら、相手が結婚したいって言えばするだろうし、子ども欲しいって言えば子どもを持てるように一緒にがんばりたいと思う。結婚したくないならしないでいいし、子どもほしくないならいなくてもいい。」だ。
 「ただ一緒にいれたらいい」なんて言うのはロマンチストが過ぎるけど、そういう相手がいない状況で仮定の質問をされても、断言できる何かが自分にはない。

 ただこれをそのまま言ったら全部相手任せの超無責任人間に映るだろうし、この場で求められているのはこういうマジレスではなく、一般論の延長としてちょっとしたトークのネタになればいいということがほとんどなので、毎回曖昧な、思ってるような思ってもないようなことを答えてしまっている。
 
 昔マッチングアプリで知り合った人に『子ども欲しいと思いますか?』と聞かれた時に、「自分の好きな人と自分の子どもがどういう人間に育つのかは興味あります」みたいなこと(その時はそう思った)を言ったら『"子どもガチャ"ってことですか?』と、会うの2回目なのに死ぬほど説教された記憶は今でも軽くトラウマだ。そんなつもりはなかったんだけどな。人生のあちこちに踏み絵が置いてあって、気づかないうちにジャッジされて、気づかないうちに切り捨てられてる。
 結婚願望のある人や子どもを欲しいと思っている人にとっては大事な意思確認なので、この質問への答えでアリかナシかをジャッジされるのは致し方ないが、人間性まで否定されるのはやっぱキツい。"正しい"や"間違っている"があるなら教えてもらいたい。"正しく"なれるように努力するよ。

 この話をオンライン英会話を受けてる時にアメリカ人の24歳の女性に話したら、「そもそもそういう質問をしてくる人や、その回答で正しいや間違っているとジャッジするような人間はFxxKだ。」「私はgo with the flowだよ。」と言ってくれて、少しだけ気持ちが楽になった。

 でも自分も、例えば自分が大学に行ってたから相手も受験を経験したり大学に行っていた前提で無意識に話してしまう時があるし(最近もやってしまった)、そういう風に無自覚に何かを前提にしてしまっていたり、先入観や固定観念を基に、発言からその人がどういう人かジャッジしてしまっている時は絶対にある。人の振り見て我が振り直せ。「私は誰のこともjudgeしません」と言ったRina Sawayamaの人間力を時間差で感じる。まあジャッジすること自体を丸ごとなくす必要はないけれど、自分の肌に合わない=間違っている、では必ずしもないし、「そのお前のジャッジは本当に大丈夫か?」って一歩立ち止まるぐらいの隙間は頭の片隅には置いておきたい。

 こういうこと考え始めると、人と話すのがどんどん億劫になってくる。自分の吐いた言葉は、全部自分に返ってくる。「もっと相手の気持ちを考えろ」とおれに言ってきた人がおれのことを考えてくれていると思ったことは一度もない。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」。罪を犯したおれたちは、馬鹿でしかないぐらい豪速球で石を投げつけ合っている。

■某日

 下半期好きだった曲に9月の新譜を加える。今月は忙しさとストレスのせいかダウナーな日が多かった。SNSを見る時間も減っている。

 1人でいる時にSNSを見てないと、人生がものすごく静かになる。洪水のように流れてくるニュースに誰かの発言、知らない人の日常も全部わからない。仕事関係やごく少数の人と連絡を取るだけ。自分と過ごす時間が長くなる。社会から切り離されているよう。窓から入ってくる生活音と、この人生は結びつかない。死ぬ時はこうやって1人で死ぬんだろうなーという気分になる。

 夢を見た。バスや電車を何度も乗り継いで、何時間かかるかもわからないようなどこか遠い場所に行かないといけなくて、今出発しないと間に合わないのに、動き出せずにいる夢。ずっと焦燥感があって、それが胸に引っ掛かり続けている夢。バスには乗りこんだけど、結局最後までそのバスは出発しないまま、夢から覚めた。

 今の自分の状況は「山頂に向かって一歩一歩、前に足を踏み出している」のではなく、「崖から落ちないように、指先に力を込めて必死にしがみついている」方。どちらも「頑張っている」と言えなくはないけど、後者はただ滑り落ちないようになんとか現状維持しようとしているだけ。おまけに打破したいという気分でもなくて、なんとか現実逃避の時間を増やしてやり過ごしてる。これが待っていれば過ぎ去る嵐なのか、自分でゴールを見つけないといけない迷路なのかはわからない。ただ今はこの出口の見えない暗闇の中、ベッドの上で寝転がりながら『サマータイムレンダ』を読んでゴロゴロしていたい。『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』の皮をかぶった『ストレンジャー・シングス』ばりのミステリーホラーって怖すぎだろお前。

■反省
 今回の日記読み返したら自分のメンタルが反映されてかまあまあ暗くて心の中のIKKOが「どんだけ~」ってめっちゃうるさい(心の中にIKKOを飼うな)。落ちてる時の文章はただでさえこんがらがってるものが更にこじれて、おまけにかまってちゃんみたいに「すごいしんどい」みたいなことを書いて人の気を引こうとしてる。3か月前の日記でも自分の文章暗いみたいなこと書いていた気がするから、そもそも明るい文章なんて書いたことがない気もするが。
 彼女ができた暁にはハッピー、ラッキー、ラブ、スマイル、ピース、ドリームなカップルTikTokerのような読んだ人間が蕁麻疹出るぐらいの超のろけブログを書いてこの陰惨なムードを帳消しにしたい(嘘)。カップルTikTokerの動画が頼んでもないのにおすすめに流れてくると「この自作自演どもが!」と毎回ブチ切れてるが(嘘)。「彼女に○○してみた!」って動画を自分で編集してる時どんなメンタルなんだお前ら今すぐそのメンタルくれ(本当)。
 でもTikTokのおかげで新しい音楽に出会うということが自分の人生にも少しずつ起きている。さっきSNS見る時間減ってるって書いたけどTikTokはちょいちょい見てる。サンキューTikTok

 TikTokのおすすめを見てたら流れてきた。2000年代のポップパンクって感じで、歌詞も今の自分の心境にハマる。どうしようもない自分のどうしようもない人生の歌。ポップパンクで黒人ボーカル珍しいなと思ってMV見てみたら、コメント欄に「No joke. I think every 30 something year old feels this.(これはマジだけど、30代の人間はみんなこれ感じてるでしょ)」って書いてあってちょっと笑ってしまった。でも落ちてる時だったから少し元気出た。

 自分にとって人生っていうのは、夢や希望に溢れた花畑みたいな自分を祝福してくれる世界ではなくて、砂漠の中から砂金を見つけるような、ろくでもないものの中から輝いている何かをなんとか探し出す苦行のようなものだ。世の中は段々悪くなっていってるし、嫌な人間はゴロゴロいる。でもそれを断罪できるほど、自分が清く正しいわけでは決してない。誰も気づいていなくても、自分のダメな部分を自分だけは全部見てきたから。周りの人や尊敬する人たちを見て、自分もちょっとでもマシになりたいなと思いながら、自分の何かが少しでも誰かのためになったらいいなと夢見ながら、ずっとあがいている。

 ただどれだけ落ち込んだ気分や情けない自分のことも、爽やかでアップテンポな曲に乗れば少しは気分も上がる。同じクソなら前向きなクソの方が良い。自分のこのスーパーネガティブ自意識過剰こじらせ思考も、笑い話にでもなって、誰かの気休めぐらいにはなってほしい。

 「生きづらそうですね」。
その時好きだった人に言われたのを今も覚えている。

"ありのままのあなたでいいんだよ。"
腐るほどありふれた言葉だけど正しいと思う。
ただ自分に言われても、「はいそうですか」って受け取れない。

"生きなよ 少し無理をして なりたい自分になるために"
そんなのしんどい。
でも正しいとか正しくないじゃなくて、そうだよなって思った。

 ランニングしてる時、バラードやミディアムテンポの曲聴いてる時よりも、アップテンポの曲聴いている方が自然とタイムが速くなる。
 足遅く生まれた人間が少しでも遠くに行きたいなら、息切らして生き急ぐぐらいでちょうどいい。

遠くに行く必要?
そんなものはない。
ただ行ってみたいだけ。