Trash We'd Love

 ■オンライン英会話を始めた。知らない人と話すのはすごく苦手だ。話をしたい気持ちはあるが、何を話せばいいかわからない。昔キャバクラに行った時、2時間の滞在中45分はトイレにいたのを今でも思い出す。おしゃべりな人見知り。最悪の組み合わせだ。ましてやそれを海外の人と全部英語でするなんて。とは言え”この生活を有意義なものにしなければならない”という強迫観念からは逃れられそうもない。しかし嫌なものは嫌だ。やりたいけどめちゃくちゃやりたくない。そうだな、マッチングアプリで知り合った女性と初めて会う時の17倍は嫌だな。正常に繋がるのか、ちゃんと受け答えはできるか、そもそもおれって英語話せたっけ?余計なこと考えすぎる選手権があれば、自分は近畿代表ぐらいにはなれると思う。しかしそんな自分の不安は驚くほどあっけなく崩れる。

相手はフィリピンに住む35歳の女性。画面の向こうの先生はすごく優しくて、授業が初めてだというと話すスピードを落とし、丁寧に教えてくれた。緊張するとまとまっていない話をグダグダと話始めゴールを見失うことが多々あるが、自分の話を理解しようと努めてくれている。まあそのやさしさの大半は彼女にとっては仕事だからだと思うが、それでも人に優しくされ、励まされ、褒められるということはすごく自分の心を豊かにしてくれていると感じれた。日々生きていて、人に褒められることも、自分で自分を褒めることもほとんどない。ただ自分に厳しくあろうとし、その自分の立てたハードルを超えれないことで自己嫌悪に落ちる。そのループ。もしかすると、キャバクラも同じ構造だったのかもしれないな。あの場所では、誰かの心が豊かになっているのかもしれない。人と言葉を交わし、どんなささやかでも自分の生活を労ってもらえるということはとても尊い。またキャバクラ行ってみたいかもな。とっくに気づいてるが、一人で生きていけるほど自分は強くない。もちろん、トイレの個室に逃げれるお店に限るけど。

 

■家から徒歩30秒。最寄りのコンビニに向かう途中で必ず通る店がある。今まで全く気に留めたことはない。最近そのお店のガラスに「テイクアウトOK」という紙が貼られた。今飲食店はどこもかなり大変なんだろうな。手書きで書かれた文字が余計に胸を締め付ける。外に立てかけられた看板を見ると寿司屋らしい。中に入ってみる。旦那さんと思しき人は厨房で、奥さんと思しき人が入口で迎えてくれる。客は自分以外誰もいない。海鮮丼のテイクアウトを頼む。約5分後、一杯の海鮮丼にしては過剰なほど感謝され、家に持ち帰る。

自分はガリが好きではない。嫌いな食べ物はほとんどないが、ガリは数少ない天敵だ。そもそも寿司を食べに行って、ガリを食べる意味がわからないと一生思ってる。しかし寿司にガリは付きもので、海鮮丼にもガリは当然のように居座っている。お前がいなければそのシャリの上にもう一枚他のネタを載せられるんじゃないか?ガリへの敵意を浮かべながら、ガリをそっとよける。海鮮丼自体は徒歩30秒で食べれることを考えたらかなり美味しかった。こんなことならもっと前から行けばよかったな。しかしこうなると、ガリだけを残すということに何とも言えない罪悪感が生まれてくる。親切にしてくれたご夫婦の顔が浮かぶ。よけたガリを口に運んでみる。「..美味くね??」これまで食べてきたガリは酸味が強すぎて口に入れた瞬間に顔をしかめたくなるものばかりだったが、ここのガリはギリギリのちょうどいい酸味の中に甘みも感じる。丼から退場させられたガリを1枚1枚味わってみる。「美味しい。」確信に変わる。まさか30歳になって、これまで見向きもしなかったお店のおかげでガリが食べれるようになるとは。今の状況は最悪だが、人生何が起こるかわからないものだ。

でも同時に、あのお店がもしなくなってしまったらと考える。今はテイクアウトを買いに行くと、お店の人が「いつもありがとうございます」と言ってくれるようになった。自分が行く時、いつもお客さんは自分以外にはいない。余計なお世話かもしれないが、なくなってほしくないなと思う。なくなってしまったら、きっと寂しくなる。ご夫婦の顔を知らなければ、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。もしこのお店の存在を気に留めないままだったら、なくなったところで何も感じなかったかもしれない。ガリと心の痛みを天秤にかける。考えるのをやめた。考えても、自分を傷つけるしかできなさそうだ。

 

■最近SNSで「バトン」や「リレー」を回すのが流行っている。何かしらのお題に自分が答え、その後同じお題を自分のフォロワーに回して、ということを数珠つなぎで繰り返す、とでも説明すればよいのか。自分の元にも数度回ってきた。自分はそういう企画が回ってきたら、「あんまこういうの得意じゃないですけど感」を出しながらも内心はすごく嬉しい。その人がこの企画を次誰に回そうか考えた時に、自分のことを思い出してくれたことがすごく嬉しい。でもいざ自分が誰かに回す順番がくると悩ましくなる。回されるのが嫌という人もいるようだし、次の人に回すことなく自分で終わらせる人もいる。何事も考えすぎな自分には、この選定は綱渡りのような緊張感を感じざるをえない作業だ。つまるところ「自分を生きづらくしているのは自分自身だ」ということを、その後の数週間にわたるこの生活を経て客観的に気づいたため、そのことを今この場に書き記しておこうと思う。ただ素直に頭に浮かんだ人に回せばいい。「素直になる」。いくつになってもそれが難しい。

 

■今更ながらNetflixにハマっている。現実は心が疲れる。物語に傾倒し、作品の世界に没頭できる時間は現実を忘れさせてくれる。『セックス・エデュケーション』を見た。優しい世界だった。コンプレックスを抱える者、家庭環境に苦慮する者、マイノリティであることを恥じる者、くだらない意地を捨てられない者。理性をコントロールできず、嫉妬や虚栄、嘘を並べて、すれ違い、傷つけ、傷つけられる。それでも許し、許され、助け合い、わかり合おうとする。心を開くことで、何度こんがらがった糸も、一つ一つ結び目を丁寧にほどいていける。自分の目には、その世界に悪い人間は一人もいないように見えた。ただみんなが少しだけ不器用で、凸凹している。ただそれだけだ。こうであればいいのにな。こうでありたいな。胸の内を満たす温かい何かが、どうしようもなくそう思わせる。

 

■失恋をした。失恋と呼ぶほど大層なものではなく、何も始まっていないにも等しいが。その人のことはずっと「気になる人」と言っていた。感情的には好きだと思うが、「好き」と言えるほどその人のことを知らないなと思い、あえて「好きな人」ではなく「気になる人」と呼んでいた。自分の良いところでもあり、悪いところでもあると思う。結果を言うと、想いを伝えるまでもなくその人には相手がいるということがわかり、いそいそと不戦敗を自己申告し撤退している今だ。これがドラマや映画なら「ダメでも自分の気持ちを言った方がいい」と言われるだろう。他人の話なら自分もそう答えるかもしれない。だが実際はそう簡単に言えないから「好き」なんだ。嫌われたくない、迷惑と思われたくない、そんな風に見てたのかマジキモイなんて思われた日には余裕で死ねる。まあそうやって過剰防衛で何も言えないのはただの自意識過剰であり、自分の悪い癖の一つのはずだったんだが。3年前、同じ人に4回告白した。4回とも振られたけど。好きだったからこそなかなか好意を伝えられず、手を繋ごうとも言えず、いつでも逃げれるような態度をとり、出会ってからの数か月はただ時間だけを費やした。意を決して告白した時には「OKな時もあったけど今はもう無理」と言われた。そう思うと今のこの気持ちも同じ失敗を繰り返してることになるが、人を好きになったのが久しぶりだったからしょうがない。そう言い訳をして自分のことを許した。ロロという劇団がYouTubeでオンライン演劇をしていた。「会いたいっていうのが先にあって 会えるかどうかは二の次なんだよね」。劇中のセリフが眩しかった。報われない恋は辛いけど、そう思える相手がいるということがすごく素敵なことだ。そう言えばこんな気持だった。自分はまた振り出しに戻ったが、またがんばろうと思える。

ちなみに今は新しく好きな人ができた。Netflixの『梨泰院クラス』に出演しているクォン・ナラだ。念のため言っておくとここは笑うとこでも憐れむところでもない。まあこの場合は「好きな人」ではなく「好きな女優」という、明確に引かれた一線の手前で抱く気持ちでしかないが。それでも心臓を握られるような痛みを和らげてくれる存在は、今の自分にはこれ以上ないほどありがたい。ドラマを見て覚えた。韓国語で「好き」は「チョアへヨ」と言うらしい。使う予定はないけど、覚えておこうと思う。

いつかどこかで、また何かがあるなら、その時に今感じてる気持ちが背中を押してくれたらいいな。いつもすぐに忘れてしまうから、ここに書いておく。