22│07│ブルーピリオド

■某日
 天王洲アイルに『ブルーピリオド展』を見に行く。主人公の八虎が美術と出会い、のめり込んでいく過程を追体験できるような展示や、実在する美大生やアーティストが実際に描いた作中に出てくる作品を直に見ることができ、まるで漫画の中の世界に入ったような感覚になる。八虎は自分に自信がなく周囲の目を必要以上に気にしてしまうが、その劣等感ゆえに努力を続けられる姿には勇気づけられるし、そんな八虎を美術の世界に目覚めさせるきっかけになった森先輩は小さな体の中に大きな意志というか不可侵の聖域みたいなものを感じさせる人で、本当にカッコいいと漫画のキャラながら憧れる。展示に行くにあたり改めて1巻から読み返して気づいたが、自分が思っていたよりも自分は『ブルーピリオド」のことが好きだったみたいだ。グッズ売り場では森先輩が好きすぎるのでクリアファイルとしおりを購入。これで毎日森先輩に勇気をもらえる。

『ブルーピリオド』を読んでると小学1年生の時に受けた美術の授業を思い出す。その時は確か読んだ絵本の中の一場面を書くという課題があり、空を何色で塗ろうか迷っていた時に当時の先生が「空は別に青じゃなくても紫でもなんでもいいんだよ」と、今思い返せば結構適当なアドバイスをくれ、けどそのアドバイス通りに空一面を紫に塗った絵がなにかのコンクールで表彰されて小学校のエントランスに飾られた。その時は「固定観念に縛られないのが芸術だ」みたいな発想はもちろんなくて、ただただ嬉しかったような気がする。
でもそれ以降、年取るにつれどんどん美術の授業は嫌いになっていったし、絵も描かなくなった。今ならその理由がわかる。自分は絵を描くのが嫌いになったわけではなくて、その絵を誰かに変だとか下手とか言われることが嫌だったんだな。そうやって他人の評価を気にしてやらなくなったことが今思い返せば沢山ある。歌うのは好きなのにめちゃくちゃ音痴だから友達とカラオケ行くのも嫌いだった。他人からの評価が怖いというのは自分のプライドの高さの表れでもあるんだけれども。もっと小さい頃にそのことに気づけてたらもう少し違う人生送っていたかもしれないなとたまに思う。でもこの遠回りが自分がそれに気づくために必要な時間だったということだから、気づけただけマシかもしれない。


■某日
 小学校からの友達から電話がかかってくる。話を聞くと、2か月前にできた年上の彼女ともう破局寸前らしい。自分の周りにはマトモに恋愛ができない人間が多すぎる。これが類は友を呼ぶか。


■某日
 『モガディシュ 脱出までの14日間』を見る。1990年のソマリアを舞台にした韓国のアクション映画で、笑えるユーモアもありつつも命の掛かった後半の緊迫感に自分の心臓もキリキリとなる。韓国と北朝鮮の大使が内戦状態の国から脱出するために協力しあうこの物語はフィクションではなく史実に基づいたものというのも衝撃。センシティブなイシューに目配せしつつも内情に詳しくなくてもエンタメとして十分楽しめる内容で、昨年韓国で最もヒットした映画という前評判も納得の面白さだった。あとチョ・インソンがマジでずっと成田凌に見えた。

 映画を見た後、ソマリアについてググってみた。映画で描かれた反政府軍との内戦ののち暫定政権が樹立するも、その後も反政府軍によるテロが続くなど、現在も治安が安定せず危険な状態が続いているようだ。劇中ではおそらく10歳に満たない子供が銃を構えてくる。映画を見ている時、登場人物たちの命が危険に晒される度に自分の心臓も縮み上がるような緊張を感じたが、そのような現実が現在進行形でこの世界で起こっているというリアリティは感じられなかった。でも帰り道、駅の階段を上がり地上に出たとき、こうして呑気に自由に外を歩ける平和は急に現実のものとして実感できた。こういう時、いつだって感じるのは罪悪感だ。


■某日
 森美術館で開催中の『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』に行く。ウェルビーイングはテーマが大きすぎて、些かこじつけのように感じたものもあったが、ウェルビーイング(身体だけでなく精神、社会的な健康)とは何かを考えるということで、すごく現代的な問いが設定されていたと思う。
 個人的にはヴォルフガング・ライプの《ヘーゼルナッツの花粉》という作品が特に好きだった。このインスタレーションはパっと見は黄色い色が広がっているだけだが、この黄色は毎日僅かにだけ取れる花粉を数年にかけて集めたもので、その僅かに取れる花粉にも遺伝子情報などが詰まっていて、その集積に生命を感じる(みたいな感じの説明)ということらしい。ただ個人的にはその遺伝子情報の集積という側面よりも、小さな石を積み続けるような、一つの行動を繰り返して何かを作り上げるという過程にとても惹かれた。
 バーネット・ニューマンや因藤壽など、一見すると単色の絵画だけれど実際は同じ色を何度も塗るという工程を経て作り出された作品を見た時、そのプロセスにこそ情熱や想いのような何かを感じ、秀でた才能のない自分にできることは愚直なまでに小さな努力を積み上げるしかないという諦念を肯定してもらえるような気持になる。